ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

何か新しいことを始めることについて

 最近職場で、売り上げが落ちるとか、今の業務が先細りになるとか、そんな話が挙がるようになってきた。そのために何か新しいことを始めるべきという風潮もあって、それはそれでいいことと思う。私もそんな風潮に煽られているのだけど。会社の話でなくとも、個人的に人生を過ごすうえで、そういったことを感じている人は多いのじゃなかろうか。私もそんな一人。

 ところが、新しいことといっても、なかなか思いつかない。最終的には、何が好きとか、感情的なものを根源とするところが発端なのだろうけど、普段、そんなことを意識せずに人生を送ってきた私のような人間にはそれが非常につらい。

 そもそも、なぜ新しいことを始めたいのか。現状そこそこ仕事してれば安定している。けど、自分の成長を感じられない。そんなところじゃなかろうか。だとするとアプローチが少し変わってくる。

 原動力が新しいことを始めたい、でなく、自分を成長させたい、に変わってくる。話がそれるけれど、普段仕事をしているうえで、自分ではできそうもない仕事を断ることがある。けれど、それは自分のできることに制限をかけていることが要因のように思える。自分じゃその仕事はできないとか、完璧にできないとダメとか、不安があるとか。。。

 その制限を外す。正直それを外すのは、本人からしたらすごく大変なことなのかもしれない。その制限は、普段無意識に実行されているのだけど、解除するには、なぜそんな制限をかけているのか、意識的に徹底的に考える必要がある。それが理解できると、次のステップに進むことができる。

 そして、それを外すだけで新しい世界が見えてくる。新しい世界が見えてくるということは、今までの自分の世の中の見え方や、取り組み方が刷新される。それが自分が成長するということじゃなかろうか。

 

テロなのか自殺なのか

 先日、東海道新幹線で発生した殺傷事件が巷で話題になっているのだけど。事件を起こした本人にとっては、何か意味があるから今回のような無差別な行動につながったはずで、広義の意味ではテロなんだろう。一方、近年高校生以下の子が、自殺を図る動機と通じるものがある気がする。

 自殺の場合は、日記やメモに残っていた、イジメていた子共、もしくは学校が報復の対象。一方、新幹線の事件は、実体がないけれど社会が報復の対象かと思う。

 倫理的には、自殺の場合は本人を虐めた子、もしくは学校が倫理的にアウトの雰囲気に追い込まれるが、新幹線の事件の場合は、本人がアウトという雰囲気。罪のない人を殺傷したのだから、本人がアウトなのだろう。

 ただどちらも、本人が追い込まれて報復に出る、という部分は共通。そんな方法でしか、自分の主張を表現できなかったのは、とても悲しいことと思う。

 自分がなにかの型にはめられてしまって、そこから抜け出せない。そんな気持ちになるのだろうか。その壁を超えるために、ちょっとだけ勇気を出せばいいとか、どうしてそう思うのか考える方法を教えるとか、そっと背中を押す人がいればなんなとなったかもしれないのに、と思う。

 

 

 

事実を冷静に判断して

 うまくいかない時がある。それは、自分の努力が足りないかもかもしれないし、外的要因でどうにもならないときもある。どちらもある。

 そんなときに、一方的に自分が悪いと思うと、いっそうダメになってしまう。冷静に考えてみる。本当に自分だけのせいなのか。潔癖症だったり、真面目な人は、そんな風に考えるのは苦手かもしれない。でも、やっぱり、本当にそうなのか、見つめ直すことは大切と思う。

 嘘をついたり、無理やりこじつる必要はない。今までは、自分の努力が足りないからと思っていた。そう思うことが、自分を成長させる原動力になっていたかもしれない。でも、いつもそうだと、これからはやっていけない。だから、事実ベースで考える。そして事実は事実として受け止めたとき、初めて自分を悪者にしていいか、悪いのか判る。事実に基づいて自分に落ち度がなければ、今までみたいに、常に自分が悪者になる必要はない。いつも自分が悪いと思うのは、そろそろ卒業すべきだ。

相反する課題を解決することについて

 映画は割と好きなほうで、以前は良く映画館に通っていたのだけど。例えば、北野武の映画はたまに暴力的な表現がある。一方、海外で受賞してたりするので芸術性はあるのだろう。かといって暴力的な表現とか、性的な表現がある場合、倫理的な観点から検閲されたり、下手すると配給禁止になったりする作品もある。

 芸術的に素晴らしいから、世の中に公開すべき。でも、道徳的に問題があるから、中止すべき。つまり、ありのままの芸術を伝えたい。検閲したら本来伝えたかったことが失われる。芸術として価値がなくなってしまう、という考え方があれば、分別のつかない青年には健全な芸術だけを提供するべきだ。それに、そもそも道徳的に問題のある作品を社会として認めて良いのか?という主張も判らなくもない。どちらが正しい主張なのか。

 実はどちらも主張も正しい。

もし、いずれの側にも真実があるとしたら、何か共通点があるはずだ。しかし、それを見つけるのは容易ではない。

100の思考実験 (著)ジュリアン・バジー

おそらくその共通点を見つけ、確立された制度がR指定なのだろう。映画の芸術性を損なってはいけない。分別のつかない人間は鑑賞すべきでない。この2つの本質的な課題を損なわずに、止揚している。

 おそらく、仕事や家庭においても、こういった課題は発生するのだろうけど、そんなとき、短絡的な解決策に飛びつくのでなく、こういった観点がもれてればと思う。

 

主体性がないことについて

 自分が主体性がないとか、やりたいことがないとか、モチベーションがないとか、感じることがたまにあるのだけど。私は仕事の忙しさから解放されて、ぽっかり空いた時間に、そんなふうに感じることが多い。そこで、その主体性を出すための原動力について考えてみた。今日がちょうど、そんな日だったので。

 1つ目は、お金が欲しい、安定した生活のため貯金したい、欲しいものを買いたい。という自分の欲求や生活に根差した考え。これは正解の一つだと思う。欲しいもののため、仕事をばんばんとる。これは判りやすい。
 一方、例えば高級車が欲しくて、仕事を頑張って、いずれ希望が叶って車を手に入れてしまうとその先の幸せはしぼんでいく。(車が好きで好きで、自分でメンテナンスしてしまようなマニアな人は除くんだけど、)一般的な人は高級車を所持することの所有欲、満足度を求めていると思うけど、いずれそれに慣れてしまうと幸せは頭打ちになる。

 2つ目は、ちょっと飛躍するけど、お客様の役に立つこと、人の役に立つことが自分の生きがい、もしくは、幸せといえるだろうか?たしかに、人の喜ぶ顔を見るのは楽しい。人の喜びを自分の喜びに還元できる。そんな人も世の中にいるかもしれない。でも、その考え方はお行儀が良すぎる気がするし、世の中そんな人ばかりじゃないと思う。

 で、3つ目が、2つ目の考え方をアレンジした考え方。人の役に立つことは変わらないけど、そこに自分なりのアプローチを加えること。それは自分なりのアプローチで、自分の人生を進めていくことにも通じるのだけど。

 1つ目、2つ目の考え方は最後まで到達しないと幸福に達しないけれど、それは正直きつい。望みが高ければ高いほど、その途中の過程は厳しくなり、地獄が待っている。それはとてもきつい。でも、最終的に得られるものでなく、その過程を自分なりのアートでアプローチしていく。それならば、その都度、自分が自分で生きているという実感を生み。幸せを感じる。そんなところが、主体性を生む原動力につながるのじゃなかろうか。

 じゃあ、自分なりのアプローチって何?、どうやって確立していくの?という疑問が残るのだけど、それはまた別途機会を設けて、自分のなかで整理できればと思う。

 

意味のない期日の延伸は無駄

 仕事の納品物の納期を決めるのに、クライアントから期日の選択肢が2つ提示される。つまり、早めの期日と遅めの期日があったとする。例えば、その差はせいぜい2日程度だったとする。

 このとき、どちらの期日を選ぶだろうか。従来の私なら、後半の期日を選んだろう。なぜなら、後半のほうが2日余裕があるから、他の仕事のやりくりが楽になるし、納品物の完成度も上がると思うからだ。

 でも、最近はそうでもないと思うようになった。きっかけは、たまたま海外出張で仕事の面倒を見て頂いた人と初めて行動を一緒にするようになってからだけど。その人は、とにかく計画の後半に余裕を持たせる人だった。つまり、できることはどんどん動いて関係者に働きかける。まず、できる範囲で早めに動く。そんな人だった。

 当初はとにかく早く動かないと商談の機会をなくしてしまう、のが理由かと思っていたのだけど。実際に行動してみて、それだけじゃないと思うようになった。

 実は、早めに行動すると後に余裕が生まれるのだ。たとえそれで失敗してもリカバリの余裕が生まれる。それだけではない。そういったポジティブな姿勢が自分のマインドを変えていくのだと思う。

 私の場合、どうしても他にも重要な仕事があるとか、成果物の完成度を上げたいとか理由をつけて、期日を遅らせてしまう。ところが、短納期の期日を自分で決断した、そういった意識が、自分の仕事に対する姿勢を変えていく。自分が仕事をコントロールしているという認識を与えるせいか、自信につながっていくような気がする。

 他の仕事があるからとか、成果物の完成度を上げるとクレームが減るとか、いろいろ理由を考えるけど、実は期日を遅らせれば、遅らせるほど、それが気になって他の仕事が手につかないし、結局たいした発展もない。

 実際、早い期日を選び、自分でコミットしてしまうと精神的に気持ちいいのだ。すっきりする。うじうじ考えて悩んでいたはずなのに、スパっとクリアになる。

 

キビキビ

 会社帰りに、とあるサイゼリヤで良く外食するのだけど。そのお店はいつ行っても店員がキビキビ動いている。他の店はどうだか判らないけど、全ての店員さんが、自分のできる範囲で仕事を進めている。そんな感じをうける。

 例えば、配膳している人がいて、レジが空いていたら、気づいた人が会計を担当する。というように、個々人の仕事が、担当不在の仕事を穴埋めすることで、全体として切れ目なくお店が回っていく。つまり、みんながいつも、動き続けていて、足りない部分を補っている。

 たまたま今日、いつもと座る席が変わったせいか、それに気づいて、目の当たりにしたのだけれど。それがとても調和がとれていると感じた。ここまで相互補完している組織に、私は今まで気が付かなくて、今日それに気が付いたとき、図らずも感動してしまった。個々の店員さんの、自分のできる範囲で考え、自分でできる仕事をまっとうしていく。そんな姿勢と、それに基づいて、スムーズに流れていく仕事。見ていてとても気持ちがいい。