ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

うすっぺらい人

 僕は前から自分のことをうすっぺらい(薄っぺらい)人間だと思っていて、例えば、同じ質問を仕事仲間と僕が聞かれたときに、仕事仲間はとても分かりやすく経験に基づいて具体的に答えるのだけど、僕はどうしても淡泊な答えになってしまう。それを自分がうすっぺらい人間だと思っていた理由だった。
 ところが最近感じているのは、人の本質的なうすっぺらさの濃淡にそんなに差があるわけでなくて、基本的に同じ時間だけ時を重ねている分、内容は違えどいろいろ経験しているわけで、答えるための材料となる知識とか経験は豊富にもっているという気がしている。
 そうだとしたら、実は僕が自分のことをうすっぺらいと考えていたのは、その材料をもとに、それを上手く他人に伝えるための方法(それには話を聞く人の立場や前提知識を加味して話す内容を調整することも含まれるのだけど)がそなわっていなかったためと思う。ただ、そのような回答をとっさにするには、得られた経験に対して常に自分の考えを組立て整理する癖をつけることが必要なんだけど。
 そして、伝える方法や常に自分の考えを整理することが足りていないことに気づけば、うすっぺらさはなくなっていくような気がしていて、実はいま自分がうすっぺらいことをそれほど気にしていない。

会話にはその人の感情と思想の両方が共存していると思っていて

会話にはその人の感情と思想の両方が共存していると思っていて。
 
今日、ツイッターでトレンドになっていた「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」という発言は「どうだ」という威圧的な表現から、その人の感情が表れているし、「母親ならポテトサラダくらい作るべきだ」がその人の思想に当たる。

 

威圧的なことを言って、他人が傷つくのを見て満足するサディスティックな人もまれにいるのだろうけど、今回の場合、おそらく母親の取った行動を目撃して、自分の大切な思想、もしくは、正しいと思っている観念を無視された、神経を逆なでされた、と感じた結果、威圧的な表現が表出したのじゃなかろうか。
 
いっぽう、「母親ならポテトサラダくらい作るべきだ」というのがその人の思想にあたるわけだけど、世間一般的に「母親ならポテトサラダくらい作るべきだ」という法律も、それを守らなかった場合の罰則もないし、少なくとも僕はそのようなルールは聞いたことがない。そうなると、少なくとも、それはその人の個別の思想であると思われる。
 
ただ、本当にその人はそんな粒度の細かいレベルで、理想的な母親であるべきルールをいくつももっているのだろうか?
おそらく、その人の大切な思想が「母親ならポテトサラダくらい作るべきだ」であるわけでなく(会話の言葉から、その思想が具体的に見えず、モヤモヤしているけど)その人が大切にしている思想が傷つけられた結果、刹那的に反応して表出した主張が「母親ならポテトサラダくらい作るべきだ」ということなのじゃなかろうか。
 
じゃあ、その大切にしている思想ってなんだろうね。
 
その人が実際の妻(この場合、子供がいることが前提)か、自分の母親に対する、こうあるべきだという考え、もしくは、その人が独身の場合、仮想の妻に対する理想像、とかですかね。
 
まあ、かといって、赤の他人の人生に対して責任も取れない人が、威圧的な態度に出ても良い、という理屈は通らないと思うけど。

時間をかけられない

最近なのかな? Twitterで自分が見た映画を30個挙げるハッシュタグができてるみたい。
とりあえず映画が好きだから、これを機に今まで見た映画を思い出しながら1つづつ30個のマスを埋めているのだけど。

twitter.com

 

映画とかね
最初は色気だけだった。
洋画見てるとカッコイイっていうイメージがあって、
よくわからなくいけどスノッブな気分に浸りたくて、
洋画見て、
観た映画の大半は覚えてないけど、
いい映画ばかりだった、という気がする。
というか、つまらない映画は覚えていないといったほうが正しいかもしれない。
 
でも僕は、全然下調べもせず、たまたま出会った映画がとてもすばらしくて、
そんなワクワクする気持ちをしっているから
いまでも、ステキな映画を探し続けてしまう。
 
でもね、いい歳になると、自分の残りの時間がどんどん減っていくことがわかってきて、
いろんなことに手を出すのに気後れしてくる。
 
あと、3年早く始めていれば、5年早く始めていれば、とてもすごいところまで到達できたのに、
そんなことを考えることがあるんだよね。
 
今からでも始められる、と思うけど、
その奈落に飛び込んだときに、結局なにも得られなかったときの恐怖を考えると、足がすくむ。
それぐらい時間が貴重だとおもっちゃうんだね。
 
僕たちの歳になると、そんなことを考えながら日々過ごすことがあるのじゃなかろうか。

自信を備えることについて

 自分に自信を持ちなさい。自己啓発書なんか、突き詰めるとそんな話ばかりじゃなかろうか。私もそう思う。自信はイイ。自信を持つだけで、自己肯定感が増し、生きていて幸せだと感じられる。

 ところが、なかなかそんな状態にならない。自信を持ちたくても、そもそも土台がないんだよね。確かに自己啓発書を読むと、それに誘発されて一時的に中身のない、上辺だけの自信を持てるけど、そんなの長続きしない。理由は、そのハリボテの自信とやらが、経験に裏付けされたものじゃないからだろう。じゃあ結局、本物の自信はどうやって身に付くのか。

 話が逸れるけど、例えば私は仕事で悩んで作業が捗らなかったり、婚活が上手く進まないのを悩んだり、一向に進まない実家の相続の手続きにヤキモキして、不安になったりする。自分だけの努力では、どうしようもないことも多いのに。(もちろん、それらの課題に対して、自分でできることが具現化すれば、その部分に関しては自分でなんとかなるけど、そんなケースは意外と少ないと私は思う。)

 そして、自分でなんともできないことでモヤモヤし、時間をとられ、不安にかられ、前に進むことを諦め、自信を失っていく。

 じゃあどうすれば良いかというと、結局やることやったら不安は忘れるしかない。むしろ忘れないと本業が疎かになったり、注意散漫になったり、ペースを崩したりして、トータルで問題が拡大し、さらに自信を失っていく。だから、不安は忘れることが大切。

 話が戻るけど、こういった恐怖と不安の入り混じった事象が、本当の自信を身に着けるチャンスなんだろう。恐怖と不安を分離して、自分で対処できる恐怖だけ克服していく。徹底的に考え、情報を集めて、決断していく。そして、不安は忘れる。その過程を経て得た結果が成功だったり失敗だったりするけど、その経験が自分の自信を作り上げていく。

 そうやって自信がない私は、自分に言い聞かせ、なだめすかしながら、今日も試行錯誤判断し、結果に後悔しながら頑張り続けている。

ちなみに、恐怖と不安の違いについてはこちら。

www.itmedia.co.jp

仲間外れ

 世の中にはいたるところにルールがあるんだろう。それは得てして自分の世界観とはズレているんだけど。そのルールに乗っからないと損をする。そんな感じじゃなかろうか。

 これは、世の中のルールと、今まで生きてきた中の自分の経験とか価値観とかに基づいて出来上がってきたルールとがズレているから生じる訳で、もし自分が損していると思うのだったら彼らのルールで戦わなければいけない。

 なぜって?自分より世の中のほうが圧倒的に強いからだ。例えば、会社に勤めている以上、会社のルールで戦わない限り評価もされないし、給料は下がりつづける。もちろん、近所付き合いもそうだろうし、公衆浴場の使い方もそうだろう。

 公衆浴場といえば、2~3年前、銭湯に行ったら、草野球チームと居合わせて、練習、もしくは、試合後の彼らが体も洗わずに入って、ドロドロになった浴槽に私が浸かっていたら、銭湯の常連さんから睨まれたという冤罪を思い出してしまった。なにげに銭湯という世界はヒエラルキーが強いらしく、あの常連さんは浴槽が汚れていたのは今でも私のせいだと決めつけているのだろうか?もしあの常連さんがヒエラルキーの頂点付近の人だったら、私はほとんどの常連さんを敵に回してしまったのではないかと今でも気になってしまう。そんな世間の怖さを感じたセンシティブな私はその銭湯から足が遠のいてしまったのだった。そんなわけで、世の中のルールはあまりに強すぎて、時に冤罪さえ生んでしまう。という結論に達した。

 ところが、私の中では冤罪だから関係ないと思っていても、周りの人から見ると私はルールを無視したとんでもない犯罪人らしいのだ。そして、犯罪人は罰せられる。

 彼らは、自分が認めたくないものに対する態度は徹底していて、噂話や感情的な表現、もしくは、ロジックを交えて、徹底的に気に食わないものを糾弾し、巧みに周りの同調を得て自分の仲間を作り上げていく。何故そんなことをわざわざするのか?彼らは何が怖いのか?自分のルールが壊されるのが怖いのか?

 かれらのルールは、今の日本という昔ながらの親方制度、もしくは、横並びの文化をベースとした世界観からくるものなのにね。何たることか、日本人の心の狭さと多様性を受け入れない文化。と、自分が仲間外れにされるエクスキューズを考え、今日も私は自分の世界観の狭さを認めていない。

英語が聞き取れない(その後)

 先日検討した英語聞き取り方法を試しているんだけど、どうもうまくない。 

halfday.hatenablog.com

 ようは英会話を聞いて、単語の数を数える方法なんだけど、どうも数えることに集中してしまい、聞き取りがおろそかになっているぽい。口に1,2,3と出して数えるのは気が散るから、指折りで数えているんだけど、これも指を折るのに気がそれて、あまりうまくない。

 それでやり方を変えて、英会話を聞きながら、聞いた単語と同じ単語を発音しながら追っかけることにした。シャドーイングというらしいけど、これがなかなかいい。聞こえた単語を発音しながら追うから、個々の単語の聞き取りに集中できる。また、途中で意味の解らない単語が出てきても止まることがない。

 なかなかいい。しばらくこれで試してみます。

生きていてもいいかしら日記

 昔から本が好きでね。本と相性がいいことを生かして、暇な時間にビジネス書ばかり読んでたら、だんだんプライベートの時間も仕事してるようで気がして滅入ってきた。休日なのに。

 そんな訳で最近、ビジネス書は放り出して、Webの評判などから面白そうな本を探して、片っ端から図書館から借りてきて読んでいる。

 北大路公子の「生きていてもいいかしら日記」も、その一つ。

私は小ぶり感が強い(小柄というのとちょっと違う。特に体脂肪率が小柄の域でない) 

この一言だけで、著者のセンスの良さがうかがえる。自虐的な表現だけど、なぜかサッパリしている。

 お相撲さんの乳首が気になったり、洗面所をきれいに使えないのを お母さんのせいにして気まずくなったり。下らない観察眼と、下品さと、エラそーで、言い訳がましい。そんな人間臭さにクスっと笑える。

 でもこんな風に書けるのは、自分の良いところも、悪いところも含めて、自分全部を好きになれてるからだと思う。そして、それが大人になるってことなんじゃなかろうか。