ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

英語が聞き取れない

 仕事の都合上、海外のお客様に英語で商品を紹介する。でも、どうしても質問が聞き取れない。言ってることさえ判れば、片言ながらも何とか回答できるのにとても悔しい思いをした。先日も。

 もちろん知らない単語を使われれば聞き取れないだろうけど、この業界でそれなりに仕事していれば、ある程度の単語は理解できるはずなので、そんなことはめったにない。

 それで、英語を聞き取れない原因をいろいろネットで調べたんだけどね、聞きながら日本語に翻訳しようとしているからなんだと思う。英語で質問を聞く→逐次日本語に翻訳する。そこで、知らない単語が出てきて気になってしまったり、知っている単語に固執して次の単語が聞き取れなくなる。このやり方だと、とてもじゃないけど聞き取りが追いつく訳がないと気が付いた。

 だから結局、英語は英語として受け止めて処理していくしかないんだろうね。

 ネットで対策を調べたら単語の数を数えるという方法が見つかった。これだと、数えることに集中するため、一つ一つの単語の区切りに集中できるし、判らない単語はあきらめて飛ばしたり、なじみの単語にとらわれない。その上、センテンス全体をつかむことができる。これで少し聞き取り力の強化を試してみよう。

 方針が確立すれば、あとはソースを準備するだけ。NHKなり、語学用アプリなり色々そろっているのでなんとかなりそう。

 

恋愛小説について

 以前は全然興味がなかったのだけど、最近恋愛小説にはまっててね。たまたま立て続けに市川拓司の本を読んでいてお思ったんだけど、この人の小説って誰も不幸にならないんだよね。ふんわりとファンタジーにくるまれているというか。。。

 誤解があるかもしれないけど、話の途中の過程では、むしろお互いにケンカしたり、認識がズレて傷つくのだけど、それを凌駕して、(最後は一緒になれなかったりするけど、)読んでいて妙に清々しいというか、ドロドロしないというか、後味が悪くないというか。。。市川拓司って 人を傷つけるのが嫌いなんじゃないかって思うくらい徹底している。

 でも、よくよく考えたらこれが純愛なんだね。傷ついても、傷つかなくても、好きな人と一緒にいる時間を大切にする。そういう大切な時間を共有することに幸せを感じる。だから人は幸福になる。

 なかなか、そんなことはないけど、そういう恋が現実にあってもいいんじゃなかろうか。

 

 p.s.: 純愛だけじゃなくて、恋愛小説って色々なユースケースがあるんでしょうね。これから楽しみです。

 

遠藤周作と柴田錬三郎について

 人の読書の嗜好って色々あると思う。普段はそんなこと気にしないんだけど、何故か自分の読書の嗜好の一部について書いてみようと思う。今朝、通勤途中で電車の中でふと思い浮かんだので。

 私の好きな作家に遠藤周作柴田錬三郎がある。(他にもお気に入りの作家がいるのだけど)この2人に共通点があるため、(自己分析もあり)整理してみようと思う。

 ざっくり言ってしまうと、二人の作品に出てくる主人公は報われない。個人の信条と体制が衝突して、最後は個人が破滅してしまう。例えば、遠藤周作の場合は、キリスト教を軸にした話が多いのだけど、主人公は、江戸幕府なり、軍事政権下の政府に屈して、自分を滅ぼしてしまう。柴田錬三郎の場合は、主人公が自分を守るために身に着けた剣術が(もしくは、信条に則って行動した結果)、世間から否定され命を落としてしまう。

 そういった、体制に対する主人公の孤高の抵抗、主人公の生き方、生き様に私は共感するのだろう。

 話がちょっとそれるけど、小林秀夫の著書「考えるヒント」も良いですね。非常に難しくて読むのに苦労するけど、自分の考えを必死に整理して訴えているところに、心が動かされます。

 そこには、個人の精いっぱいの主張がある。そして、そこから、説得力が生まれ、読む人の心を熱くする。そんな感じじゃなかろうか。

 自分を熱くする。そんな本に会えることは滅多に無いけど、これからもそんな本との出会いを大切にしていきたい。

頭の負荷をリセットすることについて

 最近、仕事をして感じるけど、従来みたいに決まった仕事をこなすこと(単純労働)はなくて、とにかく自分で考えて仕事進めることが多い。漠然とした注文を受けて仕事を始めるのだけど、そんな時は何から始めていいか判らないから、まず情報収集と収集した情報を自分なりに解釈することから始める。このプロセスは、とにかく頭脳労働の負荷が高い。しばらく続けていると脳が休息を求めるから気晴らしするけど、全然疲れが解消されない。先日もそんな日だった。

 どんな気晴らしをしたか説明すると、①仕事の途中で煮詰まったとき、②帰宅してからの気晴らしは、①会社なら、ビジネスや自己啓発関係のサイト巡回②自宅ならツイッターや自分が好きなサイトを巡回。でも全然ダメ。個人的には好きな行為なんだけどね。

 実はこれが問題。この行為は、仕事で情報を詰め込んだり、消化不良になった脳に対して、さらに情報を詰め込んでいるから、脳の負担を増やしている。確かに、自分の好きな情報の収集と蓄積は刺激を与えるから楽しいのだけど、一方、新しい情報をさらに脳に詰め込むため、実は脳の負担を増やしている。つまり、気にいった情報を集めれば集めるほど満足度は上がるけど、ストレスは溜まる。

 だから、勇気を出して頭を空っぽにするのがいい。意外とこれが効く。5分でいいからボーっとするだけで、脳のストレスがリセットされる。せっかく貯めた情報が損なわれるとか、忘れてしまうかもと心配になるが、実は脳は優秀で頭の奥のほうで覚えていて情報を整理している。しかも、ほんの少しの時間でできる。

 また、強制的に頭を空っぽにする方法として運動を最近始めたけどこれもいい。以前はスポーツによる頭脳労働の効率化の相関関係が判らなかったけど、実際に運動するとその効果を実感する。私の場合はジョギングだけど、とにかく体を上手く動かすことに集中すると、なぜか頭に対する負荷が無くなって、自然と頭を使わなくなるのだ。結果として、脳がリフレッシュされる。ちなみに、脳のストレス解消の目的から運動するなら帰宅後がいい。私は通勤に電車とバスを使うけど、まず座れないし、バス停から自宅まで歩くのでそれなり体が温まっているため、すぐに運動できる。つまり、体が温まっているため、運動しても故障しにくいメリットがある。準備運動もいらない。脳のストレスをリセットするのに必要な運動時間はほんの10~20分くらい。

 ちょっとしたボーっとする時間や運動で、脳の負荷がリセットされる。結果として仕事や自己啓発の効率が良くなるなら、そのくらいのリセット時間確保するのは全然問題ないのじゃなかろうか。

人は自分の思うようにしか認識しない

 人と会話をしていても、うまく私の考えや気持ちが伝わらない、理解してもらえない。そんなつもりじゃないけど相手に誤解を与えてしまう。そんなことがたまにある。今日もそんなことがあった。

 話がそれるけど近頃、点滴異物混入事件がニュースになっている。

www3.nhk.or.jp

 容疑者の動機が気になる一方、これは倫理的に複雑な問題も含んでいる。例えば、同業の看護師の方が自分の観点でツイートしてる。

   一連のツイートから、この方の主張は、容疑者に対する同業の看護師としての共感でなく、

  • 病院、もしくは家族の都合(お金)のため、生かされ続ける不幸な患者がいる。
  • 看護師の仕事は患者が幸福になることだが、患者の生命を維持する結果、患者に苦痛を与え続ける。という矛盾と戦いながら仕事をしている。

と私は認識した。①も②も倫理的に非常に深い問題で、簡単に結論が出ない。どちらも当時者、および関係者を含めトータルで幸福なら問題ない、という功利主義的な話(でも、道徳的には大いに問題がある。ちなみに、この方自身もこの仕事でお給料をもらっている、と述べている。)理不尽な話だけど実社会はこういった現実で回っていることも否めない。

 一方、この方のツイートに対する、コメントをざっと挙げると、

  • この看護師さんの言う通り患者(家族)に負担かけていた、ごめんなさい。
  • 加害者に共感するなら、看護師として、この仕事は向いていない。
  • 加害者の動機に共感する、もしくは、共感してはいけない。
  • 患者の家族が怠慢だ。
  • このような事件を誘発する、看護体制、制度が問題だ。

これは、私の認識と異なる。しかし、ここで言いたいのは、コメントを返した人が間違っているという話ではない。要は、結局人は自分の解釈したいようにしか解釈しないということ。例えばコメントの主旨は、家族か?医者か?看護師か?全くの他人か?患者本人か?で捉え方は全く変わってくる。だからコミュニケーションは難しい。人は、他人の発言を聞いている振りをしても、結局、自分の感じたいように感じる、それだけのことなのだ。

  話がそれるけど、この方は現状がやむを得ないと述べながらも、自分の今までの経験を反省したり、普段から問題意識をもって自分なりに何ができるか考えながら仕事をしているのだろう。そうじゃなければ、数々のコメントの反論の本質を認識して回答できるわけがない。だから当事者の利害関係を加味して発言できる。

 徹底的に考えて、なにが自分にできるか考えて行動している。そういった人がいるから救われる人(患者さん)がいるのかもしれない。これがプロフェッショナルというものじゃなかろうか。

 

アウトプットが必要だと思うこと

 もともとうんちくが好きで、哲学を始め歴史、経済と文系の教養書を読むのだけど。知識が貯まる一方、そのうち情報を頭に入れるだけだと行き場のない知識が氾濫して、しばらく情報の蓄積はお休み、という気分になる。先週もそんな感じで、休日ついお昼寝してしまった。

 書物だけで物事や事象を理解するのは非常に困難。実体験を伴わない、インプットした情報だけに基づく頭の中の情報の咀嚼プロセスは、ひどく抽象的でストレスが溜まる。だから、ちょっと休憩、という感じなのだろう。最近はその繰り返しで、一方的な知識の蓄積に行き詰まりを感じている。

 少し話がそれるけど、映画を見るとか、美術館に行くとか。それも結局インプットなのだと思う。確かに公共で提供される著名な映画や美術は、芸術レベルが一般のレベルを超越しているため、それなりに満足度を得られる。でも、やっぱりインプットなのだ。

 話が戻ると、そんな訳で懲りずにとある本を読んでいたところ、こんな文章が目に留まった。

 ゆえに、アウトプットはどんなものでも個性的であり、どんなものでも唯一無二だ。アウトプットすることは、世に二人といない自己を表現することにほかならない。

黄金のアウトプット術 (著)成毛 眞

 結局、これなんだと思う。インプットした情報を自分なりに解釈してアウトプットする。このブログもその意味では役に立っている。だれも読んでくれないけど。

 著者の主張は、世の中インプットしてばかりで、アウトプットを怠っている人ばかり。少しアウトプットの技術を磨けば、AIにとって代わられない仕事を作り出せる。(このAIによる脅迫的な自己啓発を求める世の中の風潮にはうんざりするけど、)それはさておき、人間はやはり根源的にアウトプットしたい生き物なのだと思う。

 今、インプットとアウトプットのバランスが崩れてうまく回っていない。そう感じる。だから、どんなに稚拙であってもアウトプットする。それに意味があるのだろう。

 そもそも、稚拙なアウトプットでもいいじゃないですか。稚拙であっても、自分の経験、経験から形作られた思想 にもとづいてアウトプットを続けていく。それを継続するうちに自分なりのフォームが出来上がっていく。そしてそれが自分のオリジナルと呼べるものとなるのじゃなかろうか。

自分にできることの制限を外すことについて

 どうしても、新しい一歩が踏み出せない。つい、物怖じして人に仕事を譲ってしまう。私がやらなてくも誰かがやるだろう。そんな負け犬根性が染みついている由々しき事態。先日がそんな日だった。

 家に帰ってそれが気になりつつも、ついいつもどおり2ちゃんねるまとめサイトを巡回してしまう。そんな時のこと。

49 :風吹けば名無し:2018/05/03(木) 05:43:02.25 id:jeq2FIr5d.net

何でもいいからとにかく自分で決めて行動するこれを繰り返して行くしかない 

出典元:女にモテる為に1番大事な事は「自信」らしいぞ

 ずばり、コレだと思いました。何かやるにしても必ず一歩出遅れる私としては。「何か新しいことを始めるのに躊躇したり、人生や仕事で自分が伸び悩む原因は、自分にできることの制限をかけているものがあるから」と私は考えるのだけど、残念なことにその制限がなかなか認識できない。しかし、その制限の一つをクリアするアプローチがこれじゃなかろうか。

 話がそれるけど、私は根拠のない自信を持つ人が嫌いである。例えば、上記2ちゃんねるの他のコメントで「自信があるふりしてれば、そのうちそれが本当の自信になる」というのがあったけど、この考え方がダメ。まったく受け付けない。それって、口の旨い奴が女の子ゲットできるってことじゃん。ちょっと納得いかない。(これはあくまで私の認識を述べているだけで、絶対間違っているとう話ではありません。実際このアプローチでうまく成長につなげる人もいるでしょう。)

 一方、引用したセンテンスは好感がもてる。なんか地に足がついている。なによりも、アプローチが実直なのがいい。時間はかかると思うけど。でも続けてたらいつのまにか自分にできることの制限を外して、限界を超えてました。という話は嫌いじゃない。

 あと、「自分で決めて」っていうフレーズがいいよね。人が決めたことをやるのか、自分が決めたことをやるのかは大きな違いがあるかと。例えアウトプットが同じでも、自分で決めて仕事を完遂すると自信がつくんだよね。

 いきなり、大きなスコープでやろうとすると、大怪我するので、小さなことから始めるといい。まずは身近な仕事の中で、上司から言われたことや、チームワークが求められる部分で、不明確な作業やモレている作業を、自分で再定義して進めてみるといい。そして、そこでやる仕事は自分のオリジナルになる。そうやって、コツコツと続けていくことが自分の自信につながり、徐々に大きな決断をできるようになるのだと思う。