ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

反省の材料

今年になって起こった出来事

  • 社員証を更新するため写真を撮ってもらったところ前回に比べてとんでもない仏頂面になっていて自分でもとても驚いた。
  • 法事で久しぶりに会った叔父に雰囲気が暗くなったと言われた。
  • 最近ブログの更新を再開したけど過去の記事を読むと今とまるっきり違う、ともすると全く正反対の状況になっていて驚いた。

 ネガティブな話ばかりだけど、そのネガティブな自分の状況に気付けたのは良かった。自分の記録が外に残っていると冷静に反省できるので良いです。

孤食の人 立喰いうどん・そば 山七

 もうかれこれ20年近く前のこと。学生時代に浦安に住んでいた時、高校時代の友人が西船橋(千葉)の予備校の寮にいました。
 友人は競馬にはまっており近くには有馬記念を開催する中山競馬場があるので一緒に遊びに行こうと誘われたため行ってみることに。途中で腹ごしらえのため最寄り駅の構内にある立ち食いそば屋に寄りました。友人は頼んだそばにこれでもかというくらい七味唐辛子を入れて食べていました。聞いてもいないのに本人曰く阿佐田哲也麻雀放浪記の影響とのこと。アンタ予備校生なのに競馬に麻雀と賭け事に色気だしてなにやってんだ。
 

 その時のそばは記憶に残らなかったからたいして美味しくなかったのだろう。それでもしばらくすると、なぜかまた行きたくなってしまう。そして失望を繰り返す永遠回帰。それが立ち食いそば。ノスタルジックな思いがこれを引き起こすのか、現在の満たされなさの埋め合わせを求めてなのか。

 失望を繰り返しつつ中にはもしかしたらこれぞ最高、絶対の立ち食いそばがあったかもしれない。それもでも食べログに登録されたコメントに勇気を与えられながら次の立ち食いそばに挑戦するここ1年。

 そんなわけで武蔵小杉にある図書館に寄ったついでに東横線新丸子駅前にある立喰いうどん・そば 山七さんにやってきました。「食い」でなく「喰い」という漢字が古風かつワイルドであり私に真剣勝負を挑んでくる。真剣勝負を感じるのは昔見た立喰師列伝押井守)の影響か。

 私が入ったのは休日の14:00頃で先客が2人くらい。お店はお姉さんが一人で切り盛りしていました。

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 いつも頼むのはかき揚げ蕎麦。かき揚げってお店によって大きさや具の種類、食感までいろいろ違っていて楽しい。食べているうちに汁が染み込んで徐々に食感や味が変化するのも楽しめてグッド。

 
 2~3分くらいででてきました。かき揚げは小ぶりかな。330円と安めの設定のため大きさに文句は言えないか。
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 予備校時代の友人の真似して唐辛子をじゃかじゃか入れたら一味唐辛子だったよ。ちょっと失敗。

 気を取り直して汁を一口。かつおの風味がします。味は薄目。蕎麦の風味は特に感じないけど立ち食いそばにそれを求めては酷か。
 汁だけではパンチが利いていないため、唐辛子やかき揚げでムードを盛り上げつつそばを進めていく。添えつけのネギとのハーモニーも要所要所で利かせつつ完食。

ごちそうさまでした。

読書感想 一路

今、一路(著作:浅田次郎)という時代劇小説を読んでいます。

 父親を亡くして家督を継いだばかりの青年が美濃(岐阜県)から江戸まで参勤交代の行列を必死で成功させようとする話。なかなか面白い。浅田次郎を読む人は判ると思うけどお得意の浪花節で泣かせるシーンもいくつか出てきます。

 話の中で行軍中に宿泊する宿の寝所にて小姓がお殿様に軍記を聞かせる話があります。江戸に一大事があれば兵をつれて馳せ参じる大事な行軍において休むときも心得を忘れてはならないためであるという作法によるそうです。しかし、お殿様はそれに反対で面目を気にするからであろう(りっぱな行軍であると見せようとしている)と部下のやりすぎを諭したところ以下のような箴言をうけます。

父はかねがねこう申しておりました。武士の面目は他聞他目にあらず、常に自聞自目に恥ずることなきよう生きよ、と。畏れながら御殿様は、面目とは傍目あってのことと申されました。しかるにそれがしは、武士の面目は傍目に関わりなしと存じまする。

一路 浅田次郎

それを聞いたお殿様は自分はなんと甘いのかと涙を浮かべるのでした。そして最後にある歌が小姓によって読まれて話が閉じます。

行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の 主ならまし

平家物語

日も暮れてしまって今日は泊まるところがない。木の下を宿とすれば花が宿の主人の代わりに自分をもてなしてくれよう。という意味だと私は解釈しました。

 武も歌も優れた平家の武将が打ち取られたときに残した歌がお殿様のまだまだ至らない心中を引き立てます。さすが浅田次郎。泣かせます。

 ちなみに、この歌を目に入れた時は意味が判らなかった。しかし、意味をググろうとしてキーボードで言葉を打ち込んだ途端に意味が分かった。これってなぜなんでしょうね。視覚的に言葉を理解するよりキーボードで打ち込んだほうが理解が良いてことなんだけど。。。普段でも資料の読解や会話の理解のヒントになりそうです。

 

図書館の貸出カードを忘れた。

今日は借りたい本があって図書館に行きました。
バスを2つ乗り継いで行くけど図書館前のバス停で降りるときに貸出カードを忘れてきたことに気付いて愕然としました。今から家に戻ってカードを取ってくるだけで往復2時間近くかかりそう。一気にやる気がなくなりました。ガッカリ。

 とりあえず降車ボタン押してしまったのでバスを降りてげんなりしつつもどうしようか逡巡していました。

 a) 一つはカードを取りに家に戻る

 b) もう一つは本を借りるのをあきらめてどこかでごはんを食べて帰る。

aだと2時間くらい時間を無駄にする。bだと当初の目的が達成できない。どちらもガッカリ感が大きいのできつい。

 そこで考えを見直してなぜ図書館に行きたかったのか考える。その図書館にしか置いていない本を読みたかったからだよね。それなら図書館に行ってその場で読んでしまえばいい。しかも返すために持ってきた本も返せる。

 目的の本を見つけて閉館時間まで2時間くらいかけて読みたい部分は大体読めました。帰りにごはんを食べて無事目的達成。よかった。

 

外食のお店を検討

 部屋にいると誘惑が多くて読書がはかどらないため、小腹がすいていたのもあってどこか外食できそうな場所を検討。お酒を飲める所が前提で候補ははま寿司かガスト。

 はま寿司はお酒のアテが豊富だけどちょっと遠い、ガストに比べるとお酒が高い。ガストは近くてお酒がはま寿司に比べると安い(ワイン1杯100円)けどお酒のあてが少ないしあまりおしくない。

  ということで2つの選択肢が延々と頭のなかでぐるぐると回っていつまでも結論が出ないとうお話し。結局近くのスーパーでお酒とアテを買って自宅でまったりすることになったのですが、その際この話を再考してみました。最近私が読んだ本によると 、

また別の例だけど、「死んだらどうなるんだろうか」ということが気になってあれこれ想像している、というような場合もある。かなり明確な疑問があるのだが、考えを進めていくとこができずにグルグルまわっている。ーーーそういうときに大切なのは、問いそのものを吟味するということだ。つまり「死んだらどうなるのか」というこの問い自体に向かって、<なぜこんな問いが気になるのか><考えて答えが出る問いなのか>、つまり<どういう問い方をすれば、①より根っこから考えたことになり、②かつ考えを先に進めていけるのか>と問うてみるのである。

哲学の練習問題 西研(著)

  よくよく考えてみると私は「くつろげる場所でおいしい食事をしながら読書をゆっくり楽しみたい。」そう思っていたのです。そうなると値段の話や遠いというデメリットは二の次になります。つまりはま寿司が正解。

 話がそれるけど、この結論に至るまでの判断は理性的に判断するけど根っこの部分は感情が起点になっているんだよね。この感情は私の原理なのですごく大切にしなければいけないことだと思います。

会話がかみ合わなくても気づかない

今日もコミニュケーションの話。

 今朝、Aさんがみんなが共有で使うパソコンがネットワーク経由で別のパソコンにつながらないので確認してほしいとパソコン管理係のBさんに依頼。Bさんは別のパソコンにつながないで使うものだと反論。

しばらくお互いに主張を譲らずずっと話がかみ合わない。ここで、

 a) Aさんはつなげないことを問題としているけど

 b) Bさんはルール通り使わないAさんが問題としている。 

 よくよく聞いてみると、ある時期からでBさんの主張するルールに変わったことをAさんは知らず昔からのルールで作業していたから今回のような齟齬が発生したらしい。

  私も後から文章に起こしてみて齟齬に気付いたけど、そもそも普段の会話でも問題点がずれているのにそれを気にせずに会話が進んでいるのですよね。 

 一般的には相手の会話の内容をじっくり吟味せずにまずは自分の主張や反論を出す。話しているうちにすり合わせていく。そんな感じで会話が進んでいるようです。

 

 

 

打ち合わせで理解が追いつかないことについて

昨日の続きです

hyogokurumi.hatenablog.com

引用記事を私なりに解釈するとコミュニケーションは以下のABCの工程から成り立っており、定型発達の人はBに時間をかけない、もしくは、省略するため目まぐるしく変化するA、すなわち、主張の変化にについていける模様。

 A:主題や課題提起

 B:Aの意味理解、検証

 C:反論、同調

非定型発達の人もプロセスは同じだけどBを納得いくまで行うため処理速度が定型の人に追いつかないと私は理解しました。

 私が打ち合わせに出席した経験に当てはめるとAの主題が目まぐるしく変化する故理解が追いつかないという主張は納得いきます。Aの主張を検証するBの工程で時間をかけるため思考が追いつきません。ではBの工程で私が何を実施しているかというと、

  • Aの主張の中で初めて聞く言葉があるため仮設をもってその意味解釈する
  • Aの主張を聞くけど私の場合その状況でその言葉を使わない(私の常識から外れている)ため受け入れるのに既存の解釈を拡大する、再定義する。
  • Aの主張で使う言葉の定義が複数ありこの場合はどの意味か判断する。

 その結果、あらゆる根拠を検討して論理的に裏付けようとする。だから時間がかかる。そんな感じだと思います。

 では定型の人はなぜ安心してBを省略できるのでしょうか。

 組織内の力関係におもねっている、つまり、盲目的に影響力を持つ人間に従っている場合はあるかもしれません。しかし、そのケースを除いても私から見ると人は発言者の言葉の意味を理解しているように思えます。私から見ると断定的な発言と思えるものでもただただ理解に努めて受け入れる。あっていようが間違えていようが気にしない。自然に受け入れている。そんなふうに感じます。つまり、発言の善悪を判断していないように思えるのです。しかし、私は主張を理解・分析し善悪を判断します。それにかける時間の差が主題に追いつけるかどうかを左右しているのではないでしょうか。