ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

江戸変わりそば 飯嶋

 今日は足を延ばして三島のお蕎麦屋に行ってきた。江戸変わりそば 飯嶋 。

変わりそばとは更科そばに練り込むもの、例えば黒ゴマやゆかり(しそ)などを毎日変えて提供していることから由来する。

 変わりそばもおいしそうだったけど私は天ざるでそばの種類は田舎そをで注文。一緒に行った人は変わりそばを注文。

 

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 天ぷら以外にもいろいろついているのがやってきた。
お汁は黒いけどそれほどパンチはない。普段立ち食いそばの濃いお汁に慣れているせいか若干ものたりない。そばはかなり太め。箸でもつとゴワゴワしていて歯ごたえがある。天ぷらは美味しかった。特にエビが大きくてプリプリしておいしい。さすがにこれは立ち食いそばでは太刀打ちできない。
 一緒に行った人のプレーンの更科そばをちょっと頂いたけどそちらのほうが細いがコシがあって美味しかった。この店は田舎そばより更科そばのほうがおすすめできると思う。
 天ざるは全て完食。ごちそうさまでした。

 

バスの運転手さんについて

 朝のバスの乗降の話。普段私が使っているバスは乗客は前方の乗車口から乗って中央の降車口から降りるというしくみで運用されている。例外はターミナル駅に停車した時で降車するお客さんが多いため乗降口両方を開放する。
 このルールはおそらくバス会社で規則として決められていて乗車口から降車することはできない。バス会社が降車口の利用を強制するのは(降車しやすい位置で停車するなど)おそらく安全面が配慮されてのことだと思う。

 ところが朝のバスは通勤客で満員で乗車口付近の人が降車する場合、降車口まで人をかき分けながら移動しなければいけない。とりわけ小さい子供や初老の方が移動するのは見ていてこちらも気の毒になってくる。
 ところが先日、乗車口付近にいた初老の女性が「すみません、すみません」と言いながら降車口に向かわず近い方の乗車口に移動して運転手さんに乗車口を開けるようにお願いしていた。運転手さんは一瞬「降車口(から降りてください)」と言いかけたけど結局乗車口を開放した。
 会社で決められた規則を破りもしお客さんが怪我でもしたら規則を破った運転手の責任になってしまう。けれど運転手さんは自分の保身よりお客さんの利便性を取ることを善とした。しかし、朝の混雑するバスで初老の女性にとって負担のかかる降車口より乗車口から降りることが善となる。これが自己本位すぎるとは言えないと思う。
 私は運転手さんの真横に立っていてその次第を見ていたけどその対応を見て切なくなった。この運転手さんが相手にしているのは一人の女性でなく世間だと思う。社会的弱者に降車口まで通り道を開けてくれない世間、女性のお願いを断ったら乗客全員(世間)を敵に回す。そういった思考はいつも運転手さんのなかで起こっているのだろう。もしくは、乗車口を開放したのはその思考を超越した運転手さんの優しさか。そんな運転手さんの気持ちが私に伝わってきた気がする。「あ、この人は我慢して自分を犠牲にしている」と思った。

 本来なら乗客の安全のためリーダーシップをとるべき運転手さんが一番弱者になっている。それをみて私は切なくなった。運転手さんも一人の人間なのだから大切にしてあげようと思う。

三嶋大社

 ちょっと気になるので静岡の三島にある三嶋大社について調べてみた。

www.mishimataisha.or.jp

三島駅から歩いて15分程度。
 祀る神様は大山祇命[おおやまつみのみこと]、積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]。大山祇命が山林農産の神で、八重事代主神が恵比寿様で商・工・漁業者の神。正確な創建時期は不明だけど少なくとも平安時代から存在するらしい。あと、鎌倉幕府をひらいた源頼朝が源氏再生を祈願して成功したことでも有名。そのため武門武将の崇敬が篤い。
 行事や見どころも多い。桜や夏祭り、ちょっと変わったものだと流鏑馬神事(やぶさめしんじ)といって全速力で走る馬上から、弓で的を狙う行事などがある。これも武門武将の崇高が篤いことに由来するものか。
 源頼朝が祈願で訪れた時に休憩したと言われる腰掛石や北条政子が奉納した国宝「梅蒔絵手箱」などもあるが、今の時期(9、10月)だと推定樹齢1200年を超えた金木犀の開花が見どころ。散歩の後は休憩できる「福太郎茶屋」がありここの草餅が美味しいらしい。

床屋さんの工夫

 私が普段使っている床屋だけど行くたびに店に何か変化がある。例えば店を飾る電飾が追加されたり、散髪中の荷物を入れる籠が追加されたり、店員さんがユニフォームを着ていたり。
 この間も散髪が終わって会計する際、机の上に知恵の輪がおいてあるので不思議に思ってみていたら店の人が子供用に揃えていとのこと。散髪待ちの暇つぶしのおもちゃなのかと思ったらそうではないらしい。子供は落ち着きがないので頭がしょっちゅう動くのでうまく散髪ができない。ところが知恵の輪を与えるとそれに夢中になって静かになるとか。よく考えている。どうしたらもっとお客さんのためになるのか考えながら日々工夫を重ねていく。すごいなと思う。

 一方、私の仕事に対する工夫はどうかというと、仕事を繰り返すうちにあるパターン(型)のようなものが出来上がってくる。さらにそのパターンを反復して見直すことで洗練し徹底的に仕事の効率化を図っていく。
 しかし、効率化はいいけどそのパターンで仕事が上手く回り始めると居心地がよくなって変えることができなくなってしまう。また、効率化といえば聞こえがいいけど、とどのつまり自分が楽をするための改善という面も否めない。その結果、もっと大切ななにかをそぎ落としている可能性はある。

 今の仕事のやり方を工夫するにはどうしたらいいか考えてみた。それは自分にとって(お店にとって)何を善にするかということじゃないだろうか。私の場合は私が居心地よく仕事できることが善。(自分が居心地よく仕事ができることは決して悪いことじゃないと思うけど)一方、床屋の場合はお客さんが居心地よくなることが善。自分のために工夫を重ねてもその変化の幅はすぐに限界が見えるけど、お客さんの総体に対する工夫は限界がない。だから常に変わっていける。そういうことだと思う。

最近メールを書くのが楽しい

 最近業務でメールを書いたり資料を作るのが楽しい。今までは自分の認識していることをそのまま書いたため相手から内容の確認を求められることが多かった。それは私の認識でとらえた内容をそのままメールや資料に表現しているからだった。自己本位のメッセージでは私のメッセージが相手に伝わらない。
 そんな時にメッセージを伝える相手を具体的にイメージするようにしている。その人がどこまで前提を理解していてどこから理解していないのか想像する。そうすることで相手に伝わる文章が書けるようになる。同じ仕事を依頼するメールを出すにしても出す相手によってメールの文面が変わってくる。それが上手くはまると楽しい。相手から承諾の回答が返されてくると嬉しくなる。

 

会議は進むされど発展しない

 日本人は(私もそうなのだけど)議論に慣れていないと感じる。言ったもの勝ちの世界であるけど言った人の主張が優れているわけではない。(暗黙の了解のうえで)議論の決定権は年長者やステータスといったところに終始し本来あるべき主張の普遍性というところにはない。もしくは普遍性を訴求できない場合、輸入した知識の本質を理解せずに誤った理解のもと分析を進めてこの分析手法は今のトレンドです、だから正しいです、みたいな発言を繰り返して一般化を盾にとって話の妥当性を担保する。そんな感じじゃないだろうか。日本の会社は。

 なぜそんな状況が発生するのか考えたけどおそらく日本古来からの思想の文化が今の状態を作り出しているのだと思う。そういった日本の思想の本質のなさに対して政治学丸山真男は以下のように述べている。

何かの時代の思想もしくは生涯のある時期の観念と自己を合一化する仕方は、はたからみるときわめて恣意的にみえるけれども、当人もしくは当時にとっては、本来無時間的にいつもどこかに在ったものを配置転換して陽の当たる場所にとり出して来るだけのことであるから、それはその都度日本の「本然の姿」や自己の「本来の面目」に還るものとして意識され、誠心誠意行われているものである。 *1

トルストイ資本論魯迅と日本人は必要に応じて思想を取り入れてきた。けれどトルストイ資本論はヨーロッパの中世まで延々と築かれてきたキリスト教の崩壊や自然科学信仰、フランス革命といった人間の自由を求める文化から起こってきた思想がベースになって発達してきた結果、発想された思想である。けれどそもそも日本にはそんな思想に影響を与える混迷した歴史は存在しない。だから外国の文化を深く理解しない以上思想の正確な認識ができるはずがない。けれどそういった歴史的背景を理解せず、日本人は自分たちに都合よく外国の思想を解釈して利用してきた、ということだと思う。刹那的にはそれはそれでよいかもしれない。一方、時代によっては本居宣長国学のように日本古来の文化に基づいて思想を見直そうという動きが一瞬発生することもあるけどそれが現代の日本で定着しているかといえばそうでないと思う。

 (高校時代の先生、もしくは私がかつて読んだ本において)誰かが言っていたけど、日本人は外国から輸入してきた思想や技術に対して、あなたたちの技術は理解する、でも宗教は日本人が古来からもっている八百万の神を信仰しているからあなたたちのすべての思想を受け入れるわけにはいきまんせん、とのらりくらりとかわして(もちろんキリスト教をそのまま文化として受け入れろというのは無理があるというのは判るけど少なくと自分たちの思想に照らし合わせて議論することを回避してきた経緯はあると思う)既成の思想を盾に自分たちにメリットのあるものだけを都合よく取り入れてきた。そんな歴史を繰り返してきた。本来外国の技術は歴史・文化的背景とセットにして育ってきたものだからそれごと受け入れない限りそれ本来が持つ本質的な意味を効果的に利用できないはずだけど日本は上辺だけ真似してきた。そんなツケがいまになってでてきているのだと思う。

 もちろん外来の思想を曲解することで日本の持つ課題に当てはめて享受するメリットがないわけではないと私は思う。それによって私たちは今まで輸入してきた憲法や自然科学の恩恵を確かに受けてる。問題は思想として何が善であるか思考する訓練を日本人は積んでないことだと思う。だから外来の思想を絶対的な善として外国から輸入し、その思想・技術に盲目的に頼ってしまう。なぜ必要なのかとことん考えずに外来思想を受け入れてしまうから外来の思想に振り回される。しかし日本では そういった外来思想の受け入れ方が暗黙の了解として存在している。

 外来思想をもう一段深く理解してその知識を取り入れていく。それが本来の他者理解というものじゃないだろうか。

 

*1:日本の思想 丸山真男

EX_MACHINA(エクス マキナ)

イギリスのSFスリラー映画。

序盤のあらすじ

 巨大IT企業に勤める主人公ケイレブは社内の重要なプロジェクトに応募して選抜される。プロジェクトは人里離れた携帯も繋がらない別荘で一週間実施されるが、社長ネイサンから直々に下った指示は開発したAIのチューリングテストであった。
 チューリングテストとは人間とAIが会話し人間がAIと人間を区別できなかった場合にAIはテストに合格するというもの。
 チューリング・テスト - Wikipedia

ケイレブのテストの対象はAIを搭載した女性型アンドロイド「エヴァ」。ネイサンによるカメラの監視下で二人の会話をベースとした実験は順調に進むがケイレブはエヴァとの会話を通しながら彼女の女性らしい部分に惹かれていく。
 そんなテストを繰り返す中、急に別荘が停電しカメラによる監視のがとかれた一瞬、ケイレブはエヴァからネイサンを信用するなと警告を受ける。真実が判らないケイレブはエヴァを信用するあまり不可解なネイサンの行動に次第に疑問をおぼえていく。

見どころ 
 私が思う見どころは2つ。
 1つ目は視聴者から観て何が真実なのか、だれが正しいいのか判らないため謎解き的要素があって面白い。純粋にスリラーとして観れる。
 2つ目はAIに人権を求めるか?という話。話の途中でエヴァは私が実験をクリアしなかたららどうなるかと質問した(もちろんクリアしない場合はエヴァは失敗作として停止だけど)がケイレブは回答できなかった。

 私たちの社会にAIが入り込んだときに彼らはとても重要な地位につくのかもしれない。そうなるとそのとき私たちは彼らにどのような態度をとるべきだろうか。人間と同等の思考を持つ主観的経験を持つものは人間と呼べないのか?もしくは新たな種として認めることができないのか。今のAIの研究や実用化のニュースをみるといずれは考える必要があるかもしれない。