ボートのおじさん
小学生のころなんだけど。私の住んでいた町には城跡があってその周りは堀でぐるっとかこまれていてみんな「お堀」と呼んでいた。お堀に囲まれた城壁の探検は小学生の私にとって冒険の場でぐるっと城壁の上を一周するだけで非常な満足感を覚えたものである。またお堀には鯉などが生息しており絶好の釣りスポットだった。
一方、私たち小学生からボートのおじさんと呼ばれる人がいた。ボートのおじさんはおそらく市の職員か清掃会社の人だったのだろう。ときたまお堀にボートを浮かべてなにか仕事をしていたようだった。お堀には遊覧ボートなどなくお堀の中を自由に行き来できるボートのおじさんは小学生の私から見てとても羨ましかったのを覚えている。
そんなある日のこと。小学生だった私は友達と一緒にお堀に釣りに出掛けた。私は先端に釣糸を結んだ竹竿で友達はリールがついた投げ釣り竿をもっていた。しかしお堀は禁止の看板があったのか暗黙のルールだったのか覚えてないけど投げ釣りが禁止だった。そして唯一の例外はボートのおじさんに許可をもらうことだった。ところが私たちはボートのおじさんを探すのが面倒と思い釣りをはじめてしまった。
ちょっと話がそれるけどボートのおじさんには小学生の子分がいておじさんの代わりに勝手に投げ釣りする子がいないか見回りしていた。私はそんなことを知らなくてその子分がやってきたときに友達の手前かっこをつけたかったのかその子分どもにボートのおじさんの許可をもらっていると嘘をついた。しばらくするとさっきの子分たちがやってきて私にちょっと来いといってきた。子分どもは私より低学年でなにするものぞと釣り場から離れて上にあがっていたところ、なんとそこにはボートのおじさんが立っていた。
冷や汗がでた。私は何をいったか覚えてないけれどいきなり頬をはたかれた。ボートのおじさんは子供に対してどうしたら大人しくさせることができるか熟知していたのだ。私は一瞬のことで頬はジンジンするけど以外と痛みは感じなかった。ただそれよりも恐怖がまさっていたのか涙がポロポロとこぼれた。圧倒的な大人の力に抗えない無力さなのか、嘘をついたことの後悔からかいろいろな要素が混じっていた気がする。なぜかあとからあとから涙がポロポロこぼれた。
ボートのおじさんは泣いた私を見て気がすんだのか説教を終えると私の釣り道具をもってくるように言った。私が竹の釣りざおを持って再度あがってきたときボートのおじさんはなぜかしまったという顔した。そして私の釣り竿は没収されなかった。後から知ったのだけどボートのおじさんはたまに子分達に立派な釣り竿を景品にしたお楽しみ会を年に何回か開催していたらしい。
お堀で許可なく投げ釣りをしてはいけないとう前提をかかげて子供を脅かし釣り道具を巻き上げて子分に横流しすることで自分の立場を作りあげけていく。今思うとそんな構図が成り立っていたのかもしれない。強いものが弱いものから搾取したものを子分にバラマキ忠誠を誓わせる。こういった構図は世の中どこにでもあるのだろう。驚くことじゃない。
もちろんボートのおじさんを問いただして確認したわけじゃないので事実は判らない。もしかしたらボートのおじさんはとんでもなく嘘つきが嫌いな人なのかもしれない。でも私は今でもふとした拍子に思い出す。それは子供ながらに感じた 理不尽な大人(社会)に対する怒りの記憶が吹き出してくるの表れなのかもしれない。
でもボートのおじさんにはボートのおじさんの善があるし、あの時の私にも私の善があった。私は私の善に基づいて嘘をついたわけだけどそれは決して誉められたものではない。私の不幸はただお互いの善がぶつかり合った結果である。
話がそれてしまったけどこうやって過去の出来事について論理的に自分の認識が正しいか論証していくことが大切なんだとおもう。その積み重ねが私に自己確信を与える。
またこうやって少しづつ自分の怒りを紐解いていくのは大切と思う。その結果相手が悪という結論になるかもしれないし、自分の認識を見直すことになるかもしれない。でもそこに結論がでれば少なくとも理不尽さを抱えたまま今後生き続けることがなくなる気がするし自己確信が増えていく。自分がもっと判るようになって好きになっていく。それでいいのじゃなかろうか。
月曜日はパンツのゴムを引き締めて
それは月曜日の私はゴムの延びきったパンツを履いて出掛けているのようなものだということ。ゴムが緩んだぱんつを履いて歩いたりいきなり走り出すからパンツがずりおちてくる。強引に走り続ければパンツが落ちてきてけっきょく余計な仕事が増えて負担が増す。全力ダッシュ中にパンツが落ちないように必死に腿上げするけど結局対処療法で本質的な解決に至らない。
好きなことを仕事にできればいいのか
先日、米澤穂信のミステリを読んでいたら以下の下りが目に留まった。主人公はフリーのライターで知り合いの編集者から都市伝説についてネタが決まっている記事四本と自由なネタで書いていい記事一本の執筆を依頼される。
これこれこういう都市伝説について書いてくれと言われれば、その仕上がりと速さはプロのものだと自負している。しかし、好きに四ページ書いてくれと言われると、手がぴたりと止まってしまう。いつものことだった。
満願 米澤穂信
主人公は小器用でお題が決まった記事はすぐに書き終えるが指定のない記事は手が出ずに先輩のライターに泣きつく。これが今の私の仕事の壁と驚くほど酷似している。私もやることが決まっていれば器用にこなせると思うのだけど好きにやっていいよと言われると手が止まる。
REFS 熱海
熱海にあるビストロ「REFS 熱海」に行ってきた。ここは地元のお野菜が売りらしい。
お店はこじんまりしているけどお食事するところが2F、一方1F&B1Fはオーガニックな野菜や地元ブランドの商品を売る場所になっている。狭い店舗でも開放的な空間を演出していてオーガニックな雰囲気の中でお食事している気分になれる。予約していた席の場所が一番その雰囲気を感じ取れるところだったので店の人が気を効かせてくれていたのかも。ありがたや。
熱海港活き〆お魚の有機ホワイトバルサミコ風味(900円)。野菜とお魚の盛り付けがキレイ。もちろん美味しかったです。野菜は甘みがあって普段スーパーで買っているものとの違いが私でも分かる。端っこに載っているのは高級食材のカラスミかな?それにしても美味しいけど食材の名前を知らないというのが最近よくある。
REFS特性こだわり野菜の蒸し煮(1000円)。プロの間で有名なカルピスバターを使っているそう。それにしてもここのお店は初めて食べるお野菜が多かった。ロマネスコというのも初めて。どれも美味しかったです。
伊豆鹿のロースト 気まぐれソース(1900円)。ソースは浜納豆を使っている。浜納豆は味が濃くて同じ大豆製品の味噌の風味を彷彿とさせる。鹿の肉は牛肉のような味で赤身のため比較的淡泊。浜納豆の濃いソースが合います。美味しかったです。
浜納豆(参考)
おとうふのティラミス。ビスケット?の歯ごたえが良かったです。
色んなお野菜が食べれて満足。ごちそうさまでした。
ジャルディーノ 静岡市
静岡市にあるカフェ「ジャルディーノ」に行ってきた。ここはジェラートが美味しいらしいけど普通の食事も美味しい。
シンプルなグリーンサラダ(600円)
メキシカンラップサンド(780円)。タコスの具をトルティーヤで巻いたもの。ピリ辛で美味しい。お酒にあいそう。
アンチョビと茄子のピッツァ(1200円)。
そして締めのジェラートとコーヒー。ジェラートはいくつか種類があって目移りしたけどお店おすすめの「杉山牧場のジャージーミルク」を選択。
ジェラートをスプーンですくうとネットリとしていて口に入れると濃厚な味が広がる。一般的にアイスクリームより乳脂肪分が低めなので比較的ヘルシー。上に乗っかっている果物は凍らせてありジェラートの柔らかさと相性がいい。
美味しかったです。ごちそうさまでした。
つかさ 平間
川崎のJR南武線平間駅の横にある定食屋さん「つかさ」に行ってきた。と言っても定食を食べるわけでなくいつもどおりお蕎麦を頂きにきた。
最近こういった町中の定食屋を見かけなくなった。サイゼリヤやガストのようなファミレスも嫌いじゃないけど町中の定食屋が出すノスタルジックな雰囲気はファミレスでは醸し出すことができない。店の前にポツリとおいてある自転車がいい味を出している。この定食屋を行きつけにしているお客さんの自転車だろうか。
13時過ぎにお店に入ったらガラガラでカウンターの中でおじさんとおばさんが休憩してた。申し訳ない。かき揚げそば(330円)を注文。おもむろにそばが入ったビニール袋をバリバリと開いて湯煎を始めるおじさん。すぐに配膳されたので温めなおすだけの出来合いそばという感じですかね。
丼が黒いためよくわからないけどお汁の色は濃くはない。そばの色はやや白い。具はかき揚げとネギ。
最初にお汁を一口。うーん、ぬるい、そして若干甘い。ぬるいのは昼過ぎでお客が少なくなったから仕方ないところか。味はするけど出汁感が弱いことから化学調味料を使っているかも。次にそばをたぐる。ややもっさりしていて若干えぐみがある。お汁となじんでいないわけじゃないが表現できない微妙なところ。ネギは新鮮でした。
かき揚げの具は人参と玉ねぎ。ころもは柔らかいタイプ。これが意外とお汁となじんで妙に美味しい。
そうそう、このお店は喫煙可能なためタバコ吸わない人は混雑時を避けたほうが無難かと。とはいえ無事完食。ごちそうさまでした。
図書館の本の書込みについて
よく図書館で本を借りて読むのだけれどたまに書き込みがある。見つけると萎えるのでやめてほしい。個人の寄贈本なら判るけどみんなの税金で購入してシェアする本なのに書き込みを入れても平気な人の考え方がわからない。
考えるヒント2 小林秀雄
本を読んでいると新しい発見がある。自分の中で言葉にできないもやもやした思いを言い現わしてくれた表現に出会ったときはこれだ!これが言いたかったんだと思う。それを覚えていてずっと自分の大切な言葉として取っておきたい、忘れたくないと思う。だから書き込みをしたくなるのだろうか。だけど私は書き込みに反対する。何故なら、
- 後から本を読む人の気持ちが書き込み部分に引っ張られる
特に思想関係の本は著者と読者の1対1の勝負だと思う。書き込みを入れた部分は本当に著者が最も言いたいこととは限らない。前述のように単に書き見込みした人が気に入っているだけかもしれない。でも後から読む人はどうしてもそこに目がいってしまう。要は書き込みが著者の思想を純粋に理解しようとするする取組みを邪魔する。 - そもそも私物化しちゃだめだよねという私のルール
図書館の本は公共のものなのだから汚してはいけない。私物化してはいけない。後から使う人のことを考えて綺麗に扱うべきだとう私の思い。 - 気持ち悪い
本は物質的に無機質なものなんだけど書き込みが発生した時点で他人の嗜好が私の中に入り込んでくる。本は書いた著者の思想を表出したものなので当然書込みがなくとも著者の思想が私の中に入り込んでくるというのはあるがそれとは違う。例えばその著者の思想が気に入らなければ読むのをやめればいい。しかし気に入って読み進めた場合に他人の書き込みがあると上手く言えないがとても生々しいのだ。書き込みした人の書き込み箇所やいい加減な線の引き方からその人の生活臭や価値観が流れ込んでくる。そして文章を読む以上それは目に入ってくるため避けようがない。それに伴い書き込みに我慢しながら読まなければいけないという精神的な暴力や圧力といったものの気持ち悪さを感じる。
このように感じるのは私だけだろうか?