ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

丹波屋

 今日は新橋駅前ニュー新橋ビルに入っている立ち食いそば屋さん丹波屋にいってきました。

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ニュー新橋ビルの周りをぐるっと回ってお店を発見。ビルの一角を利用したこじんまりとした店舗。店内は想像していたよりより狭い。L字カウンターで4~5人が入ったら満員。サラリーマンが多くなる平日はどうやってさばいてるのか不思議。

食べログをチェックするとここは春菊天とカレーが一押しみたい。春菊天も魅力的だったけどだけど、ここは我慢していつも通りかき揚げそば(360円)を注文。券売機はなくてそばが配されたら現金を渡して清算する。

 

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具はかき揚げ、ワカメとネギ。かき揚げが大きい。
お汁はやや黒い。そばはやや細め。
最初にお汁を一口。そんなにパンチはないけどかつおがよく効いている。
そばは若干やわらかめ。風味はなし。お汁とのからみはややある。
かき揚げの具は人参、タマネギ、春菊かな。ころもは柔らかめでお汁がしみこむとホロホロと崩れてくるタイプ。柔らかめだけど食感が良くまずまずのかき揚げでした。

今日はボーッとしていて完食後の写真を撮り忘れたけど、無事完食。ごちそうさまでした。

 

人に仕事を押し付けるのがうしろめたいときがある

 ときどき人から仕事を依頼されると断れないときがある。それは人が自分の助けをもとめているのを断るのはおかしいとか、人に嫌われたくないという気持ちがあるからかもしれないけど 一番の原因は状況によって変わる損得勘定ができないからだと思う。

 私は損得勘定することが必ずしも善ではないと思うけどやはり損をすると落ち込む。でも人から頼まれると手伝おうという気持ちになる。それが自分がかかわっていた仕事だったらなおさらやってしうまう。本来なら役割を移譲した以上、私がやる必要ないのだけど私がやるべきという使命感のようなものがムクムクと沸いてくる。

 なぜこんな状態になるかというとおそらく私のなかで明確にどこまでやるという線引きができてないからということがある。なのでやってしまう。けどそうなると周りの人はあいつは何をやっているんだと怒る。まずいことに社会にでるとそのような「やる」・「やらない」を切り分ける境界は不明確な場合が多い。だからと言って不明確を理由に私ができるのに他の人が苦労するのはおかしい気がする。だから仕事を引き受けてしまう。

 逆に私からお願いできないケースというのもある。仕事をお願いするのは申し訳ないと思ったり、自分でできることはやってしまおうと思考が働く。それで結局私の力がおよばなくてギリギリになって周りの人に迷惑をかけたとしたらそれは善どころか悪である。でも私はどこまで人にお願いしていいのか判らなかったり、どこまで自分がやればいいかもわからない場合がある。だから全部自分でやってしまおうと思考が働くのかもしれない。
 私たちのほとんどは会社という社会に属している。意外なことに会社はそのあたりの役割分担が不明確である場合が多い。例えば、リーダーや部下といったヒエラルキーとか職場内の係の仕事とかあるけどそういった前提条件があっても不明確な場合がしばしばある。意識して線引きすることは大変だと思うけどその線引きを決めることができるのは自分だけだと思う。だから私は自己確信をもって仕事をお願いすることに後ろめたい感情を持つことはないと思う。

 

回答が早いこと

 メールの返信が早いと言われて喜ばれたことがある。私はあまり早さを気にしていない。まあ喜ばれるならいいかと思うけど別に喜んでほしいわけじゃない。だとすると私は何故そんに返信を急ぐのか。

 例えば回答を待っている人を待たせたくない、というのがある。もしくは簡単な仕事だったり仕事が終わっているのにギリギリまで時間がかかっている振りをするのはなんか嫌というのもある。人によっては大変な仕事とアピールしたいからか、もしくは暇になると次の仕事がくるのが嫌なのか判らないどたまにそんな感じの人はいる気がする。
 でもそういった人に迷惑をかけるのが嫌とか承認欲求とか怠けたい訳ではない。よく考えてみると目の前の仕事に思いっきり集中したいというのがもっともしっくりくる。未回答のメールがあるとそれが気になって本業がおろそかになりそうな気がする。だからすぐに返事を出すのだと思う。

 逆に私から依頼を出してなかなか返事が返ってこないときはどうしたらいいのか。私はすぐに返事を出すことを優先するけど必ずしも他人はそうじゃない。でも私がそういう思考をもっているから返事がこないと気になってしまう。じゃあどうするかというと、忘れてしまうことだと最近は思っている。

最近英訳が楽しい

 最近自社で開発しているITシステムの紹介ビデオを編集しています。日本語版がすでにあって吹き出し英訳するんだけどなかなか面白い。

 最初に断っておくと私の英語知識はは中学から高校レベルでTOEICのscoreも700くらいです。なので英語に堪能な人から見たら問題のある表現をしているかもしれません。だけど英訳がとても楽しいので私的になぜ楽しいのか整理したというのが今回の話です。

 

 例えば、ブラウザのブックマーク機能のメリットを紹介する以下の文があるとする。

ブックマークによりHPを探す手間が無くなる

ここで辞書で調べた単語を直接引き当てると不自然な英文になる。試しにGoogleの自動翻訳サービスにかけると以下のようになったりする。

It takes time to search HP by bookmark.

日本語特有の主語がない文のため仮主語 it を使ったりしているけど明らかに間違った訳になる。これではブックマークを使うと時間がかかる、みたいな表現。これはたまたまワーストケースかもしれないけど、場合によっては日本語と訳が一致していて文法も問題ないけど、そもそもネイティブはこんな説明の仕方をするだろうか?みないたのものある。

 ここからが英訳が面白くなるのだけど日本文を直訳してもだいたいダメな気がする。そんなときに日本文の本質を捉えたり抽象化することから始める。それが見えてきてから英文を作るのが楽しい。
 例文で説明するとそもそも「探す手間」ってどんなこと?と考える。ブックマークを用意しなかった場合に目的のHPにたどり着くには、HPを検索できるようなキーワードの見当をつけたり、グーグルでキーワード検索する操作が必要だけど、そういった手間が無くなる、と言いたいのだと仮定する。ならば以下のように日本文を置き換える。

ブックマークによりどこのHPを見ればすぐに明示されるためHPを検索する操作が不要となる

これをうまく英訳できればいいけど、私はそれほどの英語のボキャブラリーや文章力がないため、もう少し抽象化したり別の表現で言い換えて英文で表現する。

The bookmark gives you  where to see and helps your operation 

こんな感じで簡素な単語や文法で説明したいことを表現できる。この言いたいことの本質を見つけて自分の表現できる範囲で英訳するという作業が(私的には)①英語を使いこなしているという気持ちと①言いたいことをすっきり説明できたという気持ちになって非常に楽しい。

ちょっとしたストレッチがいい

 最近事務所で仕事中に膝の裏が張ったり足が痺れることがある。姿勢が悪いからだと思っていたところたまたま腰痛対策の講座が開催されていたので受けてきた。結果としてなかなかよかった。

 インストラクターの話によると人は歩いているときでも仕事をしているときでも何か身体に負荷をかけたり緊張したりする。緊張すると筋肉が縮む。筋肉が縮とその方向に体が引っ張られ、その状態が長時間続くと姿勢が崩れて悪くなる。その不自然な姿勢が腰に負担をかけるということらしい。
 例えば私の場合、画面を見ながらキーボードを叩く作業に集中すると、知らず知らず肩や首に力が入ってしまう。一方意識して力を入れにくい腹筋・背筋がフリーになって背中が丸くなる。その結果腰に負担がかかる姿勢になるという感じか。
 だからストレッチをしてして筋肉をほぐすことで姿勢を自然な状態に戻しましょう、とのこと。なるほど。

 そのインストラクターの教えをもとに以下のことをやっているがなかなか調子がいい。
 1つめ。垂直な壁に踵から後頭部までぺったりくっつけて立つ。その状態で腰の部分に片手の手のひらを入れる。(つまり、手のひら一枚分のスペースを壁と腰の間にあける)。そしてあごをひく。というのが正常な姿勢らしいい。私の感覚だとみぞおちのところに天井から紐をひっかけて身体をつっているような感じ。歩いているときも座っているときもこの姿勢を保っていると以下の改善がありました。

  • 荷物を持って歩いても腰が痛くならない
  • 今まで事務所でずっと椅子に座り続けていると脚がしびれる感覚や膝のうらが張る感じがしたけれどこの姿勢を維持するとそれが緩和される。

 2つめ。座りながら耳を挟む感じで両手をまっすぐ頭上に伸ばして指を組む。そのまま左右に体を倒したり、ねじりながら身体を前後に倒すと肩甲骨から脇腹のあたりが伸びて気持ちいい。

 3つめ。仰向けの状態で肩甲骨の真ん中辺りと床の間に100円ショップで買ってきた直径20cmくらいのストレッチボールを挟む。それで体を左右に揺らしたりねじったりして肩甲骨や首の後ろをグリグリして満遍なくほぐす。きもちいい。両腕を頭上方向に伸ばしてやるとなお良し。次の日肩甲骨のあたりが軽くなった。

 デスクワークをやると(私の場合読書が趣味だからなおさらだけど)とにかく首や肩甲骨のあたりが凝るのでおすすめです。

健康イベントに参加しています

 とある健康イベントに参加している。万歩計を持ち歩いて歩数が多い人やキリ番の人が表彰されるらしい。

 私は普段昼休みジョギングをしているけど同じジョギング仲間の方(その人はとてもいい人です)は万歩計を持って走っていると聞いた。それを聞いたとき私の中に納得いかない感情が沸き上がってきた。
 たまたま別の人にその話を共有したら問題ないよね?て回答だったので何故自分は納得いかないか考えた。
 ジョギングしてる人は慣れているから簡単に歩数をかせげるけど普段ジョギングをしない人は同じ歩数を稼ぐのに大変な運動量を必要とする。つまり不公平だ、というのが私の主張。けれど山登りが趣味の人が万歩計をもって山を登ったとしても私は納得すると思う。ジョギングも趣味の一環であるなら山登りだけ許せるのはおかしい。
 もう少し私の感情にフォーカスしてみる。私だったらジョギング中は万歩計を持たない。なぜなら万歩計のためにジョギングを始めたわけじゃないし、今までジョギングをつづけてきた純粋な気持ちを(表彰されるという承認を得るために)汚したくない。こちらの理由のほうが私はしっくりきた。
 ここでふと気付いた。先ほどのジョギング仲間も万歩計を持つべきでない、という思考は自分の認識の延長線上に他人の認識があると捉えていたのが問題だった。ジョギングで万歩計を使っていけないルールはないから選択は個人の自由のはずだ。
 だとすると私の主張は次のようにするのが正しい。私はジョギング中は万歩計は使わない。ただし他の人がジョギング中に万歩計を使うのは気にしない。

予告された殺人の記録 G・ガルシア=アルケス

 作家の市川拓司が紹介していた「百年の孤独」という本に興味があるけど図書館で貸し出し中だったため同じ著者の本を読んでみた。なんと表現していいか判らないけどとてもリアリティがある物語でした。


 嫁入り前の妹を汚された兄弟によってサンティアゴという男が殺されるのだけど、数十年ぶりに町に戻った「私」が関係者に事件の裏付けを取って当時を振り返りながら物語が進んでいく。
 サンティアゴが殺されると知って登場人物達が自分の立場から、良心、妬み、嫉妬、友情などから自分の思惑で判断・行動するのだけど結果としてサンティアゴは殺されてしまう。

 例えば、ナサール一家の使用人ビクトリアは、

一方、ビクトリア・グスマンは、サンティアゴ・ナサールを殺そうと待ち受けている者がいることを、自分も娘も知らなかった、と断言した。しかし、彼女は年を取るとともに、彼がコーヒーを飲みに台所に入ってきたときには、二人ともそれを知っていることを認めるようになった。 *1

一家に不幸にされたという思いから抜け出せないビクトリアはサンティアゴが狙われているという情報を一家に教えず隠してしまう。
 また、サンティアゴを殺害した張本人のビカリオ兄弟においては

しかし、どうやらビカリオ兄弟は、人に見られず即座に殺すのに都合のいいことは、何ひとつせず、むしろ誰かに犯行を阻んでもらうための努力を、思いつく限り試みたといのが真相らしい。だがその努力は実らなかった。*2

 本当なら殺す気なかったけど、自分達の妹を辱しめたということに対する世間的な対面を保つため(本当はそのつもりはなかったけど)彼を殺すアピールしなければならなかった。だけど偶然が積み重なりサンティアゴを殺してしまう。 


 サンティアゴを殺させないように行動する登場人物もいれば、自分の都合を優先するあまり適当な対応で済まして登場人物もいる。貞操観念の強い文化と複雑な人間関係の構造が偶発的殺人を招く。そのプロセスが生々しくて、もどかしてくて読んでいて冷や汗がでてくる。
 一般的に私たちが済む社会は(少なくとも日本では)一見道徳の上に成り立っているように見えるが実はそうではないと思う。社会を動かすのは個人の価値基準が原動力になっている。その個々人の価値基準の構造がたまたま悪い方向に積み重なって悲劇が起こる場合がある。世間で取り上げられる犯罪とはそういったものがあるのかもしれない。

 

*1:予告された殺人の記録 G・ガルシア=アルケス

*2:予告された殺人の記録 G・ガルシア=アルケス