ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

アウトプットが必要だと思うこと

 もともとうんちくが好きで、哲学を始め歴史、経済と文系の教養書を読むのだけど。知識が貯まる一方、そのうち情報を頭に入れるだけだと行き場のない知識が氾濫して、しばらく情報の蓄積はお休み、という気分になる。先週もそんな感じで、休日ついお昼寝してしまった。

 書物だけで物事や事象を理解するのは非常に困難。実体験を伴わない、インプットした情報だけに基づく頭の中の情報の咀嚼プロセスは、ひどく抽象的でストレスが溜まる。だから、ちょっと休憩、という感じなのだろう。最近はその繰り返しで、一方的な知識の蓄積に行き詰まりを感じている。

 少し話がそれるけど、映画を見るとか、美術館に行くとか。それも結局インプットなのだと思う。確かに公共で提供される著名な映画や美術は、芸術レベルが一般のレベルを超越しているため、それなりに満足度を得られる。でも、やっぱりインプットなのだ。

 話が戻ると、そんな訳で懲りずにとある本を読んでいたところ、こんな文章が目に留まった。

 ゆえに、アウトプットはどんなものでも個性的であり、どんなものでも唯一無二だ。アウトプットすることは、世に二人といない自己を表現することにほかならない。

黄金のアウトプット術 (著)成毛 眞

 結局、これなんだと思う。インプットした情報を自分なりに解釈してアウトプットする。このブログもその意味では役に立っている。だれも読んでくれないけど。

 著者の主張は、世の中インプットしてばかりで、アウトプットを怠っている人ばかり。少しアウトプットの技術を磨けば、AIにとって代わられない仕事を作り出せる。(このAIによる脅迫的な自己啓発を求める世の中の風潮にはうんざりするけど、)それはさておき、人間はやはり根源的にアウトプットしたい生き物なのだと思う。

 今、インプットとアウトプットのバランスが崩れてうまく回っていない。そう感じる。だから、どんなに稚拙であってもアウトプットする。それに意味があるのだろう。

 そもそも、稚拙なアウトプットでもいいじゃないですか。稚拙であっても、自分の経験、経験から形作られた思想 にもとづいてアウトプットを続けていく。それを継続するうちに自分なりのフォームが出来上がっていく。そしてそれが自分のオリジナルと呼べるものとなるのじゃなかろうか。