ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

会議は進むされど発展しない

 日本人は(私もそうなのだけど)議論に慣れていないと感じる。言ったもの勝ちの世界であるけど言った人の主張が優れているわけではない。(暗黙の了解のうえで)議論の決定権は年長者やステータスといったところに終始し本来あるべき主張の普遍性というところにはない。もしくは普遍性を訴求できない場合、輸入した知識の本質を理解せずに誤った理解のもと分析を進めてこの分析手法は今のトレンドです、だから正しいです、みたいな発言を繰り返して一般化を盾にとって話の妥当性を担保する。そんな感じじゃないだろうか。日本の会社は。

 なぜそんな状況が発生するのか考えたけどおそらく日本古来からの思想の文化が今の状態を作り出しているのだと思う。そういった日本の思想の本質のなさに対して政治学丸山真男は以下のように述べている。

何かの時代の思想もしくは生涯のある時期の観念と自己を合一化する仕方は、はたからみるときわめて恣意的にみえるけれども、当人もしくは当時にとっては、本来無時間的にいつもどこかに在ったものを配置転換して陽の当たる場所にとり出して来るだけのことであるから、それはその都度日本の「本然の姿」や自己の「本来の面目」に還るものとして意識され、誠心誠意行われているものである。 *1

トルストイ資本論魯迅と日本人は必要に応じて思想を取り入れてきた。けれどトルストイ資本論はヨーロッパの中世まで延々と築かれてきたキリスト教の崩壊や自然科学信仰、フランス革命といった人間の自由を求める文化から起こってきた思想がベースになって発達してきた結果、発想された思想である。けれどそもそも日本にはそんな思想に影響を与える混迷した歴史は存在しない。だから外国の文化を深く理解しない以上思想の正確な認識ができるはずがない。けれどそういった歴史的背景を理解せず、日本人は自分たちに都合よく外国の思想を解釈して利用してきた、ということだと思う。刹那的にはそれはそれでよいかもしれない。一方、時代によっては本居宣長国学のように日本古来の文化に基づいて思想を見直そうという動きが一瞬発生することもあるけどそれが現代の日本で定着しているかといえばそうでないと思う。

 (高校時代の先生、もしくは私がかつて読んだ本において)誰かが言っていたけど、日本人は外国から輸入してきた思想や技術に対して、あなたたちの技術は理解する、でも宗教は日本人が古来からもっている八百万の神を信仰しているからあなたたちのすべての思想を受け入れるわけにはいきまんせん、とのらりくらりとかわして(もちろんキリスト教をそのまま文化として受け入れろというのは無理があるというのは判るけど少なくと自分たちの思想に照らし合わせて議論することを回避してきた経緯はあると思う)既成の思想を盾に自分たちにメリットのあるものだけを都合よく取り入れてきた。そんな歴史を繰り返してきた。本来外国の技術は歴史・文化的背景とセットにして育ってきたものだからそれごと受け入れない限りそれ本来が持つ本質的な意味を効果的に利用できないはずだけど日本は上辺だけ真似してきた。そんなツケがいまになってでてきているのだと思う。

 もちろん外来の思想を曲解することで日本の持つ課題に当てはめて享受するメリットがないわけではないと私は思う。それによって私たちは今まで輸入してきた憲法や自然科学の恩恵を確かに受けてる。問題は思想として何が善であるか思考する訓練を日本人は積んでないことだと思う。だから外来の思想を絶対的な善として外国から輸入し、その思想・技術に盲目的に頼ってしまう。なぜ必要なのかとことん考えずに外来思想を受け入れてしまうから外来の思想に振り回される。しかし日本では そういった外来思想の受け入れ方が暗黙の了解として存在している。

 外来思想をもう一段深く理解してその知識を取り入れていく。それが本来の他者理解というものじゃないだろうか。

 

*1:日本の思想 丸山真男