ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

トルストイ 人生論

 たまになぜ私は仕事をするのか?と思う。もちろん生活の糧として必要という話はあるけど、少なくとも私はやりがいのある仕事でないと楽しくない。じゃあ楽しい(幸福)とは何なのか?どうなったら幸福なのか?と考え出すと納得のいく結論は簡単にでない。

 

 古典はいい。同じような疑問をもっている偉人が同じような問題を考えてくれる。トルストイの人生論は生きることや幸福について考察している。

人間にとって大切なのは、自分のものと感ずる生命の中での幸福、つまり自分の幸福だけなのである。 *1

トルストイは人間にとって自分の幸福だけが大切だと言う。 しかし、お金をもうけたり、権力を手中にして人を自分の思い通りに動かそうとする(トルストイは動物的個我といっている)自己本位の欲求の追求は幸福をもたらさない、と言う。なぜなら、 

人が永く生きれば生きるほど、この判断はますます経験によって裏付けられてゆく。そして、互いに相手を滅ぼし食いつくそうと望んでいる、相互にかかわり合いのある多くの個的存在から成り立ち、自分もそれに参加している、この世界の生活が、自分にとって幸福でなぞありえないばかりが、きっと大変な災厄になるに違いないということに人は気づくのである。*2

個人がそれぞれの自己本位な欲求を争う世界。そんな世界で人は幸福になれないという。例えば、富が何処かに集中すれば貧困層が増える、産業が発達すれば環境が破壊されるリスクが増えるとかいうことだと思う。さらに、

人は永く生きれれば生きるほど、快楽がますます少なくなってゆき、倦怠や、飽満や、苦労や、苦悩がますますおおくなってゆくことを、いっそうはっきり知る。(中略)たとえどのようなものにせよ個我の幸福のいっさいの可能性が、個我の生命とともに確実に滅びてしまう状態、すなわち死への、たえまない近接にすぎないことに、気づくのである。*3

そもそもどんなに幸福を追求しても自分の死とともに無に帰してしまう。そこにやりきれなさを人は感じるため不幸になる、という。そして、 

 人間の生命に欠くことのできぬ最高の能力であり、人間を破壊する自然の力のただなかで、裸一貫の寄辺なき人間に生存の手段をも快楽の手段をも与えてくれる能力である理性ーまさしくその能力が人間の生命を毒するのである。*4

(動物にはない)理性を持っているのが人間の特徴である。人は理性によって思想や科学、社会、経済などを発展させてきた。しかし今その理性が自己本位な欲求の追求や死が人を絶望に直面させ苦しめているという回答を出してしまった、という。
 では人間にとっての本当の幸福とは、

 お前は、みながお前のために生きることを望んでいるのか、みんなが自分よりお前を愛するようになってもらいたいのか?お前のその望みがかなえられる状態は、一つだけある。それは、あらゆる存在が他人の幸福のために生き、おのれ自身よりも他の存在を愛するような状態だ。そういう場合にのみ、お前も他のすべての存在も、みなに愛されるようになるし、お前もその一人として、望み通りの幸福をさずかることだろう。*5

人が自分に尽くしてくれると感じることが幸福という前提ならば、逆説的に他人に尽くす(他人を愛する)ことができれば全ての人は幸福になるという。
(現実社会で実現はまずありえないので)ロマンチストな答えだと思う。でも実現困難かもしれないけど私はこのような理想論はあっても良いと思う。

 じゃあ、どれだけ他者を愛すればいいのか?どれだけ自分を犠牲にして人に尽くせばよいのか?という疑問はある。例えば、家族と隣人がいたら家族への愛を優先して隣人は構わなくて良いのか?トルストイは、

人間が個我を否定するのは、ふつう考えられているように、父や、息子や、妻や、友人や、親切なやさしい人たちなどに対する愛の結果でなく、個我の生存のむなしさの自覚と、個我の幸福の不可能さの自覚との結果であり、したがって個我の生命を否定する結果、人間は真の生命を認識し、父や、息子や、妻や、子供たちや、友人たちを本当に愛することができるのである。
愛とは、自分、すなわち自己の動物的個我よりも他の存在を好もしく思う感情である。*6

まず、上で述べたように自己本位の欲求は不幸を招くと認識することが大切だという。そうすれば自然と自分よりも他者を大切にするようになるという。

 さらに、他者を愛するには2つの課題があるという。

 一つは死である。人は死を恐れる。よって死を自分から見えなくするため自己の快楽を増大させる。その結果、人は自己本位になるため他者に尽くすことができなくる。しかし、 トルストイは兄の死を例に、

兄の生命の力は、肉体の死後も、死ぬ前と同じように、あるいはいっそう強く作用し、すべてに真に生きているもののように作用する。わが身にこの生命の力を、兄の肉体的な生存の際にあったのとまったく同じものとして、つまり、世界とわたしの関係を解明してくれた、世界と兄との関係として感じとっていながら、いったいどんな根拠にもとづいて、死んだ兄はもはや生命を持たない、などと断言できるだろうか?*7

 兄の肉体的な死は問題でない。むしろ彼の中で兄の思想が生き続けているから問題ないとする。つまり、その人の思想は他者の中に生き続けているので報われる、という。

 もう一つは苦痛。他者に尽くすことは非常に苦労、苦しみを伴うことだという。それが他者を愛することから疎遠にする。しかし、

理性的な意識が苦しみを味わわなかったら、人間は真理を認識せず、自己の法則もしらなかっただろう。(中略)個我の苦しみや人間の迷いの原因に対する理解と、そういったものを減少させるための活動こそ、生命の仕事のすべてなのである。わたしが人間であり、個我であるのは、他の個我の苦しみを理解するためであり、わたしが理性的な意識であるのは、それぞれ別の個我の苦しみの中に、苦しみの原因たる迷いをみて、自分と他の人々のうちにあるその原因を根絶することができるためにほかならない。*8

 むしろ苦痛は他者の苦痛を理解するのに必要なものであると説く。自分で苦痛を経験するから他者をどう愛すれば良いか判るというのである。

(総評)やや理想論と思うけど洞察が深くて考え方が参考になる。人生とは?幸福とは?非常に重くて漠然としていて自分一人で考えるのは大変だけど先人の思考として参考になります。

*1:トルストイ 人生論

*2:トルストイ 人生論

*3:トルストイ 人生論

*4:トルストイ 人生論

*5:トルストイ 人生論

*6:トルストイ 人生論

*7:トルストイ 人生論

*8:トルストイ 人生論