ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

泉谷閑示 「私」を生きるための言葉

  ⭕⭕ってどう思う?ってきかれるといつも困る。理由は2つあって1つは判断を求められているか、(⭕⭕っていいよね、もしくはよくないよね、という)同意を強制されているのか判らないから。もう一つは後者だった場合回答に困るから。反対したら相手が怒るし、不服で承知するのは自分の意見を曲げてしまったようで釈然としない。

 「私」を生きるための言葉で著者はそういった日本語の曖昧さの問題点をあげる。

主語をたてない「親父はいやなやつなんですよ」という発言は、どこか聞き手を束縛する要素を含んでいる言い方であると考えられます。一人称主語をたてずに行われる発言は、個人的で主観的な意見をいっているにもかかわらず、大げさに言えば、普遍的な心理を提示しているような意味合いを生み出してしまいます。提示されたのが「個人的意見」ではなく「普遍的心理」ですから、聞き手は当然それに同調すべきということになり、聞き手はまるで「踏み絵」を迫られたような事態に置かれてしまいます。*1

  主語を省略することであたかも普遍的であるように錯覚させ相手の同意を引き出していく。わたしも日本語のそんなじめじめした部分がどうもが苦手。

  そして日本社会のコミニュケーションはダイアローグ(会話)でなくあくまで個人の主観に同意を求めるモノローグ(独り言)であると言い切る。

   話がそれるけど日本は実名で情報公開するFackbookより匿名で独り言をつぶやきくTwitterの利用者が多いと聞いたことがある。これもつまり、匿名にすることで普遍性を担保し、モノローグ(独り言)で共感を求める日本の考え方に一致しているからだと思う。

 著者はこのようなモノローグを主体とするコミニュケーションが個人の主観を基準とするため人の話を聴くことができず、その結果、人の意見を経験として取り込むことで人が成長するプロセスが阻害されると言う。

 そうならないため、「私」という一人称の個人主義に目覚めるべきだという。そして個別性に目覚めることで始めて他者を意識できるようになるという。

一人称の主体になるということは、個別性に目覚めることです。(中略)その状態においては、自分以外の人間を目にしても人はそこにまだ「他者」を見てはいません。(中略)人は自分の個別性に目覚め一人称の主体になることによって、いかに自分が周囲の人間と異なったことを感じ考えているのかということに、否応なしに直面させられます。それは大変な驚きを伴う「経験」の始まりであり、「孤独」の認識の始まりでもあります。*2

  

 個別性に目覚めるとはとことん自分とは何か考えることだと思う。とことん考えて自己確信を得ることで始めて人間とは考える生き物だと自覚する。他人との思想の違いを認識する。他人が自分とは全く違う生き方をしていることが判るから他者の話を聴くようになるのだと思う。

 じゃあ自分とは違う他者を理解出来たらどうなるかというと著者は、

「他者」の中に「他者性」を見る、つまり「違う」を見ることを重ねていくことによって、その先には意外にも「同じ」が見つかってきます。「他者」の奥底に、「私」と同質のものが発見されるのです。それは、「世間」で見ていたような表面的で奥行きのない「同じ」とはまったく次元の違う、人間して普遍的なものに地下水脈の深さで触れる「経験」です。この普遍的なものに触れたとき、一人称主体である「私」は、もはや「私」の個別性に固執出来なくなります。

  「私」も「他者」も超越した普遍的な思想が見えてくるという。この境地は私はまだわからない。けれどそこに望みがあるなら目指してみようと思う。

 

 (総評)歴史的にも個人の自由の研究が進んでいる西欧では、このような成熟した個人主義の考え方は進んでいるように思う。日本社会においてそれが善となりうるか判らないけど(個人的にはそうなって欲しい)、関係性を求める社会と自分の折り合いに悩んでいる方ならこの本は参考になるかも。

 

*1:泉谷閑示「私」を生きるための言葉

*2:泉谷閑示 「私」を生きるための言葉