ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

読書 はじめてのヘーゲル「精神現象学」

 会社で仕事をしているとどうしても自分の意見を取り下げできなくて人と衝突してしまう場合がある。立場が対等ならいいけど、そういった時はえてして相手の立場が上の場合が多く、結果として①情報を十分に共有してもらえなかったり②評価を下げられる、という制裁を受ける。

 はじめてのヘーゲル精神現象学」ではフランス革命時の(本来なら革命のために立ち上がった人達を革命成功後の政府が処罰する)恐怖政治を「死の畏怖」の例としてそれを説明している。

「死の畏怖」の経験は、人に、個としての自己存在を絶対的理想の情熱と引き換えにできるか、という問いの前に立たせる。多くの人は命とひきかえに「絶対的理想」に殉じることを断念し、過激な理想への情熱をなだめるのだ。*1

 つまり私の意見(個人としての絶対的理想)を通そうとすれば、会社の意見(より普遍的な理想)により否定され①②のような制裁を受ける。孤立や給料が下がる(という「死の畏怖」から)私はそこまで意見を通せずに会社の意見を受け入れる。

 しかしそこで自分の意見を黙殺したままで良いのか?と疑問に思う。私はもっと「自由」でありたい、という思いに矛盾する。

「普遍的自由」を実現するためには、政治と社会に必要な現実的制度をそれなりに受け入れるほかはないと考える。つまり、すでに存在する社会的な制度を容認しつつ、徐々に新しい秩序を作り上げてゆくほかないことを認めるのである。*2

  この本では会社のルールに基づいて(もしくは新しくルールを作り上げて)そこで自分の自由を通していけと語る。この辺りは自己啓発書などで、「周りの環境が変わることはない、それよりも自分が変わりなさい」とよくある話。

 話がそれるけど、大切なのは「死の畏怖」を自分で経験して打ちのめされることだと思う。なぜなら、そうしないと自分を社会に対応させるという考えが腹に落ちないから。

  しかし、実際に仕事に関わると回答が判っていない、そもそも課題さえ判っていないものが多いと思うけど、そういった絶対的な基準がない場合、私はなにを拠り所に判断するのか?この本ではそれは「良心」だという。

「行動する良心」は、いまこの行為の「善い」、という素朴な善の感度を生きているだけである。ここでは精緻な認識や思想がないかわりに、その絶対的な理想化もなく、善の意識が良き行為と一つに結びついて生きられている。この意味で「行動する良心」の本質は、理念化された「純粋義務」にではなく、あくまで「このことは正しいと自分は信じる」という「自己確信」にある。*3

  (会社のルールも含めて)理性や道徳に基づく「純粋義務」でなく、あくまで自分の正しいと思う信念に基づてまず動くべきだと語る。良心は自分の自由意志だからこの説は納得できる。ただし、良心は外的な絶対基準をもたないためブレやすい。

 また、仮に外的絶対基準があったとしても、自分の良心を大切しなければいけない場合もある。例えば、会社の上司の命令で法的にまずい作業を指示されたとして、その結果、自分の家族が路頭に迷うようなことがあれば良心を優先しなくてはならない。

 それでは絶対的基準を持たない良心は意味がないのか?という問いに対してこの本はこう答える。

たしかに、「良心」は、「正しさ」の根拠を絶対的な知としてもっているわけではない。しかしそれでも、その根拠を「言葉」のかたちで全面的に他者に示そうとする態度を見て、他者のほうは、自己確信を普遍的なものたらしめようとする良心の意志じたいは承認しないわけにはいかない。*4

 つまり、良心に基づいて主張すれば、少なくとも自分の意見は相手に理解されるべきということ。普遍的な基準を探すにはお互いの意見の相互理解が必要だからまずは第一歩として自分で確信したことははっきり主張する。大切なことだと思う。

 

*1: はじめてのヘーゲル精神現象学」 竹田青嗣+西 研

*2: はじめてのヘーゲル精神現象学」 竹田青嗣+西 研

*3: はじめてのヘーゲル精神現象学」 竹田青嗣+西 研

*4: はじめてのヘーゲル精神現象学」 竹田青嗣+西 研