人は自分の思うようにしか認識しない
人と会話をしていても、うまく私の考えや気持ちが伝わらない、理解してもらえない。そんなつもりじゃないけど相手に誤解を与えてしまう。そんなことがたまにある。今日もそんなことがあった。
話がそれるけど近頃、点滴異物混入事件がニュースになっている。
容疑者の動機が気になる一方、これは倫理的に複雑な問題も含んでいる。例えば、同業の看護師の方が自分の観点でツイートしてる。
#大口病院 #高齢者延命 #療養病棟
— しがないナース (@Angelfishmanbo) July 8, 2018
今回の大口病院事件の容疑者をかばっている訳ではありません。
容疑者は許されない事をしました。
これをきっかけに高齢者の医療制度、高齢者延命の実情を知って欲しいです。https://t.co/IsbXsTIsoi
一連のツイートから、この方の主張は、容疑者に対する同業の看護師としての共感でなく、
- 病院、もしくは家族の都合(お金)のため、生かされ続ける不幸な患者がいる。
- 看護師の仕事は患者が幸福になることだが、患者の生命を維持する結果、患者に苦痛を与え続ける。という矛盾と戦いながら仕事をしている。
と私は認識した。①も②も倫理的に非常に深い問題で、簡単に結論が出ない。どちらも当時者、および関係者を含めトータルで幸福なら問題ない、という功利主義的な話(でも、道徳的には大いに問題がある。ちなみに、この方自身もこの仕事でお給料をもらっている、と述べている。)理不尽な話だけど実社会はこういった現実で回っていることも否めない。
一方、この方のツイートに対する、コメントをざっと挙げると、
- この看護師さんの言う通り患者(家族)に負担かけていた、ごめんなさい。
- 加害者に共感するなら、看護師として、この仕事は向いていない。
- 加害者の動機に共感する、もしくは、共感してはいけない。
- 患者の家族が怠慢だ。
- このような事件を誘発する、看護体制、制度が問題だ。
これは、私の認識と異なる。しかし、ここで言いたいのは、コメントを返した人が間違っているという話ではない。要は、結局人は自分の解釈したいようにしか解釈しないということ。例えばコメントの主旨は、家族か?医者か?看護師か?全くの他人か?患者本人か?で捉え方は全く変わってくる。だからコミュニケーションは難しい。人は、他人の発言を聞いている振りをしても、結局、自分の感じたいように感じる、それだけのことなのだ。
話がそれるけど、この方は現状がやむを得ないと述べながらも、自分の今までの経験を反省したり、普段から問題意識をもって自分なりに何ができるか考えながら仕事をしているのだろう。そうじゃなければ、数々のコメントの反論の本質を認識して回答できるわけがない。だから当事者の利害関係を加味して発言できる。
徹底的に考えて、なにが自分にできるか考えて行動している。そういった人がいるから救われる人(患者さん)がいるのかもしれない。これがプロフェッショナルというものじゃなかろうか。
アウトプットが必要だと思うこと
もともとうんちくが好きで、哲学を始め歴史、経済と文系の教養書を読むのだけど。知識が貯まる一方、そのうち情報を頭に入れるだけだと行き場のない知識が氾濫して、しばらく情報の蓄積はお休み、という気分になる。先週もそんな感じで、休日ついお昼寝してしまった。
書物だけで物事や事象を理解するのは非常に困難。実体験を伴わない、インプットした情報だけに基づく頭の中の情報の咀嚼プロセスは、ひどく抽象的でストレスが溜まる。だから、ちょっと休憩、という感じなのだろう。最近はその繰り返しで、一方的な知識の蓄積に行き詰まりを感じている。
少し話がそれるけど、映画を見るとか、美術館に行くとか。それも結局インプットなのだと思う。確かに公共で提供される著名な映画や美術は、芸術レベルが一般のレベルを超越しているため、それなりに満足度を得られる。でも、やっぱりインプットなのだ。
話が戻ると、そんな訳で懲りずにとある本を読んでいたところ、こんな文章が目に留まった。
ゆえに、アウトプットはどんなものでも個性的であり、どんなものでも唯一無二だ。アウトプットすることは、世に二人といない自己を表現することにほかならない。
黄金のアウトプット術 (著)成毛 眞
結局、これなんだと思う。インプットした情報を自分なりに解釈してアウトプットする。このブログもその意味では役に立っている。だれも読んでくれないけど。
著者の主張は、世の中インプットしてばかりで、アウトプットを怠っている人ばかり。少しアウトプットの技術を磨けば、AIにとって代わられない仕事を作り出せる。(このAIによる脅迫的な自己啓発を求める世の中の風潮にはうんざりするけど、)それはさておき、人間はやはり根源的にアウトプットしたい生き物なのだと思う。
今、インプットとアウトプットのバランスが崩れてうまく回っていない。そう感じる。だから、どんなに稚拙であってもアウトプットする。それに意味があるのだろう。
そもそも、稚拙なアウトプットでもいいじゃないですか。稚拙であっても、自分の経験、経験から形作られた思想 にもとづいてアウトプットを続けていく。それを継続するうちに自分なりのフォームが出来上がっていく。そしてそれが自分のオリジナルと呼べるものとなるのじゃなかろうか。
自分にできることの制限を外すことについて
どうしても、新しい一歩が踏み出せない。つい、物怖じして人に仕事を譲ってしまう。私がやらなてくも誰かがやるだろう。そんな負け犬根性が染みついている由々しき事態。先日がそんな日だった。
家に帰ってそれが気になりつつも、ついいつもどおり2ちゃんねるのまとめサイトを巡回してしまう。そんな時のこと。
49 :風吹けば名無し:2018/05/03(木) 05:43:02.25 id:jeq2FIr5d.net
何でもいいからとにかく自分で決めて行動するこれを繰り返して行くしかない
ずばり、コレだと思いました。何かやるにしても必ず一歩出遅れる私としては。「何か新しいことを始めるのに躊躇したり、人生や仕事で自分が伸び悩む原因は、自分にできることの制限をかけているものがあるから」と私は考えるのだけど、残念なことにその制限がなかなか認識できない。しかし、その制限の一つをクリアするアプローチがこれじゃなかろうか。
話がそれるけど、私は根拠のない自信を持つ人が嫌いである。例えば、上記2ちゃんねるの他のコメントで「自信があるふりしてれば、そのうちそれが本当の自信になる」というのがあったけど、この考え方がダメ。まったく受け付けない。それって、口の旨い奴が女の子ゲットできるってことじゃん。ちょっと納得いかない。(これはあくまで私の認識を述べているだけで、絶対間違っているとう話ではありません。実際このアプローチでうまく成長につなげる人もいるでしょう。)
一方、引用したセンテンスは好感がもてる。なんか地に足がついている。なによりも、アプローチが実直なのがいい。時間はかかると思うけど。でも続けてたらいつのまにか自分にできることの制限を外して、限界を超えてました。という話は嫌いじゃない。
あと、「自分で決めて」っていうフレーズがいいよね。人が決めたことをやるのか、自分が決めたことをやるのかは大きな違いがあるかと。例えアウトプットが同じでも、自分で決めて仕事を完遂すると自信がつくんだよね。
いきなり、大きなスコープでやろうとすると、大怪我するので、小さなことから始めるといい。まずは身近な仕事の中で、上司から言われたことや、チームワークが求められる部分で、不明確な作業やモレている作業を、自分で再定義して進めてみるといい。そして、そこでやる仕事は自分のオリジナルになる。そうやって、コツコツと続けていくことが自分の自信につながり、徐々に大きな決断をできるようになるのだと思う。
何か新しいことを始めることについて
最近職場で、売り上げが落ちるとか、今の業務が先細りになるとか、そんな話が挙がるようになってきた。そのために何か新しいことを始めるべきという風潮もあって、それはそれでいいことと思う。私もそんな風潮に煽られているのだけど。会社の話でなくとも、個人的に人生を過ごすうえで、そういったことを感じている人は多いのじゃなかろうか。私もそんな一人。
ところが、新しいことといっても、なかなか思いつかない。最終的には、何が好きとか、感情的なものを根源とするところが発端なのだろうけど、普段、そんなことを意識せずに人生を送ってきた私のような人間にはそれが非常につらい。
そもそも、なぜ新しいことを始めたいのか。現状そこそこ仕事してれば安定している。けど、自分の成長を感じられない。そんなところじゃなかろうか。だとするとアプローチが少し変わってくる。
原動力が新しいことを始めたい、でなく、自分を成長させたい、に変わってくる。話がそれるけれど、普段仕事をしているうえで、自分ではできそうもない仕事を断ることがある。けれど、それは自分のできることに制限をかけていることが要因のように思える。自分じゃその仕事はできないとか、完璧にできないとダメとか、不安があるとか。。。
その制限を外す。正直それを外すのは、本人からしたらすごく大変なことなのかもしれない。その制限は、普段無意識に実行されているのだけど、解除するには、なぜそんな制限をかけているのか、意識的に徹底的に考える必要がある。それが理解できると、次のステップに進むことができる。
そして、それを外すだけで新しい世界が見えてくる。新しい世界が見えてくるということは、今までの自分の世の中の見え方や、取り組み方が刷新される。それが自分が成長するということじゃなかろうか。
テロなのか自殺なのか
先日、東海道新幹線で発生した殺傷事件が巷で話題になっているのだけど。事件を起こした本人にとっては、何か意味があるから今回のような無差別な行動につながったはずで、広義の意味ではテロなんだろう。一方、近年高校生以下の子が、自殺を図る動機と通じるものがある気がする。
自殺の場合は、日記やメモに残っていた、イジメていた子共、もしくは学校が報復の対象。一方、新幹線の事件は、実体がないけれど社会が報復の対象かと思う。
倫理的には、自殺の場合は本人を虐めた子、もしくは学校が倫理的にアウトの雰囲気に追い込まれるが、新幹線の事件の場合は、本人がアウトという雰囲気。罪のない人を殺傷したのだから、本人がアウトなのだろう。
ただどちらも、本人が追い込まれて報復に出る、という部分は共通。そんな方法でしか、自分の主張を表現できなかったのは、とても悲しいことと思う。
自分がなにかの型にはめられてしまって、そこから抜け出せない。そんな気持ちになるのだろうか。その壁を超えるために、ちょっとだけ勇気を出せばいいとか、どうしてそう思うのか考える方法を教えるとか、そっと背中を押す人がいればなんなとなったかもしれないのに、と思う。
事実を冷静に判断して
うまくいかない時がある。それは、自分の努力が足りないかもかもしれないし、外的要因でどうにもならないときもある。どちらもある。
そんなときに、一方的に自分が悪いと思うと、いっそうダメになってしまう。冷静に考えてみる。本当に自分だけのせいなのか。潔癖症だったり、真面目な人は、そんな風に考えるのは苦手かもしれない。でも、やっぱり、本当にそうなのか、見つめ直すことは大切と思う。
嘘をついたり、無理やりこじつる必要はない。今までは、自分の努力が足りないからと思っていた。そう思うことが、自分を成長させる原動力になっていたかもしれない。でも、いつもそうだと、これからはやっていけない。だから、事実ベースで考える。そして事実は事実として受け止めたとき、初めて自分を悪者にしていいか、悪いのか判る。事実に基づいて自分に落ち度がなければ、今までみたいに、常に自分が悪者になる必要はない。いつも自分が悪いと思うのは、そろそろ卒業すべきだ。
相反する課題を解決することについて
映画は割と好きなほうで、以前は良く映画館に通っていたのだけど。例えば、北野武の映画はたまに暴力的な表現がある。一方、海外で受賞してたりするので芸術性はあるのだろう。かといって暴力的な表現とか、性的な表現がある場合、倫理的な観点から検閲されたり、下手すると配給禁止になったりする作品もある。
芸術的に素晴らしいから、世の中に公開すべき。でも、道徳的に問題があるから、中止すべき。つまり、ありのままの芸術を伝えたい。検閲したら本来伝えたかったことが失われる。芸術として価値がなくなってしまう、という考え方があれば、分別のつかない青年には健全な芸術だけを提供するべきだ。それに、そもそも道徳的に問題のある作品を社会として認めて良いのか?という主張も判らなくもない。どちらが正しい主張なのか。
実はどちらも主張も正しい。
もし、いずれの側にも真実があるとしたら、何か共通点があるはずだ。しかし、それを見つけるのは容易ではない。
100の思考実験 (著)ジュリアン・バジーニ
おそらくその共通点を見つけ、確立された制度がR指定なのだろう。映画の芸術性を損なってはいけない。分別のつかない人間は鑑賞すべきでない。この2つの本質的な課題を損なわずに、止揚している。
おそらく、仕事や家庭においても、こういった課題は発生するのだろうけど、そんなとき、短絡的な解決策に飛びつくのでなく、こういった観点がもれてればと思う。