ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

相反する課題を解決することについて

 映画は割と好きなほうで、以前は良く映画館に通っていたのだけど。例えば、北野武の映画はたまに暴力的な表現がある。一方、海外で受賞してたりするので芸術性はあるのだろう。かといって暴力的な表現とか、性的な表現がある場合、倫理的な観点から検閲されたり、下手すると配給禁止になったりする作品もある。

 芸術的に素晴らしいから、世の中に公開すべき。でも、道徳的に問題があるから、中止すべき。つまり、ありのままの芸術を伝えたい。検閲したら本来伝えたかったことが失われる。芸術として価値がなくなってしまう、という考え方があれば、分別のつかない青年には健全な芸術だけを提供するべきだ。それに、そもそも道徳的に問題のある作品を社会として認めて良いのか?という主張も判らなくもない。どちらが正しい主張なのか。

 実はどちらも主張も正しい。

もし、いずれの側にも真実があるとしたら、何か共通点があるはずだ。しかし、それを見つけるのは容易ではない。

100の思考実験 (著)ジュリアン・バジー

おそらくその共通点を見つけ、確立された制度がR指定なのだろう。映画の芸術性を損なってはいけない。分別のつかない人間は鑑賞すべきでない。この2つの本質的な課題を損なわずに、止揚している。

 おそらく、仕事や家庭においても、こういった課題は発生するのだろうけど、そんなとき、短絡的な解決策に飛びつくのでなく、こういった観点がもれてればと思う。

 

主体性がないことについて

 自分が主体性がないとか、やりたいことがないとか、モチベーションがないとか、感じることがたまにあるのだけど。私は仕事の忙しさから解放されて、ぽっかり空いた時間に、そんなふうに感じることが多い。そこで、その主体性を出すための原動力について考えてみた。今日がちょうど、そんな日だったので。

 1つ目は、お金が欲しい、安定した生活のため貯金したい、欲しいものを買いたい。という自分の欲求や生活に根差した考え。これは正解の一つだと思う。欲しいもののため、仕事をばんばんとる。これは判りやすい。
 一方、例えば高級車が欲しくて、仕事を頑張って、いずれ希望が叶って車を手に入れてしまうとその先の幸せはしぼんでいく。(車が好きで好きで、自分でメンテナンスしてしまようなマニアな人は除くんだけど、)一般的な人は高級車を所持することの所有欲、満足度を求めていると思うけど、いずれそれに慣れてしまうと幸せは頭打ちになる。

 2つ目は、ちょっと飛躍するけど、お客様の役に立つこと、人の役に立つことが自分の生きがい、もしくは、幸せといえるだろうか?たしかに、人の喜ぶ顔を見るのは楽しい。人の喜びを自分の喜びに還元できる。そんな人も世の中にいるかもしれない。でも、その考え方はお行儀が良すぎる気がするし、世の中そんな人ばかりじゃないと思う。

 で、3つ目が、2つ目の考え方をアレンジした考え方。人の役に立つことは変わらないけど、そこに自分なりのアプローチを加えること。それは自分なりのアプローチで、自分の人生を進めていくことにも通じるのだけど。

 1つ目、2つ目の考え方は最後まで到達しないと幸福に達しないけれど、それは正直きつい。望みが高ければ高いほど、その途中の過程は厳しくなり、地獄が待っている。それはとてもきつい。でも、最終的に得られるものでなく、その過程を自分なりのアートでアプローチしていく。それならば、その都度、自分が自分で生きているという実感を生み。幸せを感じる。そんなところが、主体性を生む原動力につながるのじゃなかろうか。

 じゃあ、自分なりのアプローチって何?、どうやって確立していくの?という疑問が残るのだけど、それはまた別途機会を設けて、自分のなかで整理できればと思う。

 

意味のない期日の延伸は無駄

 仕事の納品物の納期を決めるのに、クライアントから期日の選択肢が2つ提示される。つまり、早めの期日と遅めの期日があったとする。例えば、その差はせいぜい2日程度だったとする。

 このとき、どちらの期日を選ぶだろうか。従来の私なら、後半の期日を選んだろう。なぜなら、後半のほうが2日余裕があるから、他の仕事のやりくりが楽になるし、納品物の完成度も上がると思うからだ。

 でも、最近はそうでもないと思うようになった。きっかけは、たまたま海外出張で仕事の面倒を見て頂いた人と初めて行動を一緒にするようになってからだけど。その人は、とにかく計画の後半に余裕を持たせる人だった。つまり、できることはどんどん動いて関係者に働きかける。まず、できる範囲で早めに動く。そんな人だった。

 当初はとにかく早く動かないと商談の機会をなくしてしまう、のが理由かと思っていたのだけど。実際に行動してみて、それだけじゃないと思うようになった。

 実は、早めに行動すると後に余裕が生まれるのだ。たとえそれで失敗してもリカバリの余裕が生まれる。それだけではない。そういったポジティブな姿勢が自分のマインドを変えていくのだと思う。

 私の場合、どうしても他にも重要な仕事があるとか、成果物の完成度を上げたいとか理由をつけて、期日を遅らせてしまう。ところが、短納期の期日を自分で決断した、そういった意識が、自分の仕事に対する姿勢を変えていく。自分が仕事をコントロールしているという認識を与えるせいか、自信につながっていくような気がする。

 他の仕事があるからとか、成果物の完成度を上げるとクレームが減るとか、いろいろ理由を考えるけど、実は期日を遅らせれば、遅らせるほど、それが気になって他の仕事が手につかないし、結局たいした発展もない。

 実際、早い期日を選び、自分でコミットしてしまうと精神的に気持ちいいのだ。すっきりする。うじうじ考えて悩んでいたはずなのに、スパっとクリアになる。

 

キビキビ

 会社帰りに、とあるサイゼリヤで良く外食するのだけど。そのお店はいつ行っても店員がキビキビ動いている。他の店はどうだか判らないけど、全ての店員さんが、自分のできる範囲で仕事を進めている。そんな感じをうける。

 例えば、配膳している人がいて、レジが空いていたら、気づいた人が会計を担当する。というように、個々人の仕事が、担当不在の仕事を穴埋めすることで、全体として切れ目なくお店が回っていく。つまり、みんながいつも、動き続けていて、足りない部分を補っている。

 たまたま今日、いつもと座る席が変わったせいか、それに気づいて、目の当たりにしたのだけれど。それがとても調和がとれていると感じた。ここまで相互補完している組織に、私は今まで気が付かなくて、今日それに気が付いたとき、図らずも感動してしまった。個々の店員さんの、自分のできる範囲で考え、自分でできる仕事をまっとうしていく。そんな姿勢と、それに基づいて、スムーズに流れていく仕事。見ていてとても気持ちがいい。

 

恐怖と不安

 仕事中の話なんだけどね。私はお客様と合意形成する上で、一段抽象化した提案や問い合わせをする傾向がある。そうなると、折角詰めていた話がリセットされてしまうため、合意形成のやり直し、ひどいときはお客様が回答する気を無くして商談が立ち消えになってしまう可能性がある。

 なぜそんなことになってしまうか考えたんだけど。合意する上で裏付けがとれていない、いろいろな心配事があって、それが自分の中で解決できていないと自信が持てない。だから結果として、それらのすべてを包括する抽象的な提案をしてしまうのだと思う。

 例えば、直前までイタリアンを食べに行こうね。と話が進んでいるのに、いろいろ余計なな心配事(果たして本当に相手はイタリアンで満足しているのか?という無駄な疑問、もしくは、イタリアンが良いという相手の雰囲気を察することができないこと)があって、結果として、お昼なににする?と抽象的な問いになってしまう。

 その問題的な思考に至る経緯を考えたのだけど。一つは不安が大きいのだとおもう。自分が認識できないお客様の期待を意識しすぎて、どんどん確かめることが膨らんでしまう。そして万能な答えを出そうとする。だから必然的に提案が抽象的になる。そんなところだろうか。

 一方、「恐怖」と「不安」の意味をネットで調べてみた。どちらも恐れの感情を伴うことは同じ。ただし、恐怖は恐怖の対象がはっきりしているが、不安は不安の対象がない、ということらしい。

 私の防御的な思考はこの「不安」によるものじゃなかろうか。なにに不安を覚えているかわらかなけいど、怖くて足がすくむ。そういった思考が、自然と防御的な姿勢をまねくのじゃなかろうか。

 もし、今度不安を感じたら、その不安の対象を探してみようと思う。対象があれば、それをお客様に確認すれば良いと思う。もしかしたら、お客様や上司に確認すると無能と思われるが嫌で確認できない思考が働いているのかもしれない。でも大切なことと思う。もし不安の対象が無ければそれは考えすぎ考えすぎなのだろう。そうやって自分の思考のクセ変えていければと思う。

判断と決断

 今日、上司にメールで回答を書いてた文章のことだけど。自分は「判断」とう言葉を使うことが多いなと。「決断」はあまり使ったことがない。

 なぜかって考えたのだけど、「決断」は行動につながり責任を伴うからだと思う。一方、「判断」は行動する手前の段階だから責任を伴わない。自分の考察を人に丸投げするだけで、自分を安全な場所に置ける使い勝手が良い言葉なのだと思う。居心地がいいのだ。

 仮想的な達成感を味わうには「判断」という言葉は非常に、甘美な響きだ。「判断」しただけで、素晴らしい結果を獲得できた気になる。でも、現実世界では、「判断」後の行動は非常に泥臭い努力が必要になってくる。つまり、それを乗り越えないとリアルな成果は得られない。

 だから、なるべく今後のコミュニケーションでは「決断」という言葉を使っていこうと思う。

しんどい

 たまたま、人の書いた文章を添削する機会があったのだけど。しんどい。私はできればその人が書いたものをそのまま生かしたいと思う人なので、私の作法で書き直したりしない。

 そこで、書いてもらった文章を私が解釈するのだけど。まずそれを解釈するには、できれば、その人がどんな考え方や思想を理解しなければいけない。それは、その人の普段の言動や感情の表現から伺えるのかもしれない。そして、その人の思想をベースに文章を解釈するのだけど、普段慣れている自分の思想とまったく異なる思想を仮想的に構築して解釈するわけだから、負担が大きい。だからこのプロセスがしんどい。