ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

主体性がないことについて

 自分が主体性がないとか、やりたいことがないとか、モチベーションがないとか、感じることがたまにあるのだけど。私は仕事の忙しさから解放されて、ぽっかり空いた時間に、そんなふうに感じることが多い。そこで、その主体性を出すための原動力について考えてみた。今日がちょうど、そんな日だったので。

 1つ目は、お金が欲しい、安定した生活のため貯金したい、欲しいものを買いたい。という自分の欲求や生活に根差した考え。これは正解の一つだと思う。欲しいもののため、仕事をばんばんとる。これは判りやすい。
 一方、例えば高級車が欲しくて、仕事を頑張って、いずれ希望が叶って車を手に入れてしまうとその先の幸せはしぼんでいく。(車が好きで好きで、自分でメンテナンスしてしまようなマニアな人は除くんだけど、)一般的な人は高級車を所持することの所有欲、満足度を求めていると思うけど、いずれそれに慣れてしまうと幸せは頭打ちになる。

 2つ目は、ちょっと飛躍するけど、お客様の役に立つこと、人の役に立つことが自分の生きがい、もしくは、幸せといえるだろうか?たしかに、人の喜ぶ顔を見るのは楽しい。人の喜びを自分の喜びに還元できる。そんな人も世の中にいるかもしれない。でも、その考え方はお行儀が良すぎる気がするし、世の中そんな人ばかりじゃないと思う。

 で、3つ目が、2つ目の考え方をアレンジした考え方。人の役に立つことは変わらないけど、そこに自分なりのアプローチを加えること。それは自分なりのアプローチで、自分の人生を進めていくことにも通じるのだけど。

 1つ目、2つ目の考え方は最後まで到達しないと幸福に達しないけれど、それは正直きつい。望みが高ければ高いほど、その途中の過程は厳しくなり、地獄が待っている。それはとてもきつい。でも、最終的に得られるものでなく、その過程を自分なりのアートでアプローチしていく。それならば、その都度、自分が自分で生きているという実感を生み。幸せを感じる。そんなところが、主体性を生む原動力につながるのじゃなかろうか。

 じゃあ、自分なりのアプローチって何?、どうやって確立していくの?という疑問が残るのだけど、それはまた別途機会を設けて、自分のなかで整理できればと思う。

 

意味のない期日の延伸は無駄

 仕事の納品物の納期を決めるのに、クライアントから期日の選択肢が2つ提示される。つまり、早めの期日と遅めの期日があったとする。例えば、その差はせいぜい2日程度だったとする。

 このとき、どちらの期日を選ぶだろうか。従来の私なら、後半の期日を選んだろう。なぜなら、後半のほうが2日余裕があるから、他の仕事のやりくりが楽になるし、納品物の完成度も上がると思うからだ。

 でも、最近はそうでもないと思うようになった。きっかけは、たまたま海外出張で仕事の面倒を見て頂いた人と初めて行動を一緒にするようになってからだけど。その人は、とにかく計画の後半に余裕を持たせる人だった。つまり、できることはどんどん動いて関係者に働きかける。まず、できる範囲で早めに動く。そんな人だった。

 当初はとにかく早く動かないと商談の機会をなくしてしまう、のが理由かと思っていたのだけど。実際に行動してみて、それだけじゃないと思うようになった。

 実は、早めに行動すると後に余裕が生まれるのだ。たとえそれで失敗してもリカバリの余裕が生まれる。それだけではない。そういったポジティブな姿勢が自分のマインドを変えていくのだと思う。

 私の場合、どうしても他にも重要な仕事があるとか、成果物の完成度を上げたいとか理由をつけて、期日を遅らせてしまう。ところが、短納期の期日を自分で決断した、そういった意識が、自分の仕事に対する姿勢を変えていく。自分が仕事をコントロールしているという認識を与えるせいか、自信につながっていくような気がする。

 他の仕事があるからとか、成果物の完成度を上げるとクレームが減るとか、いろいろ理由を考えるけど、実は期日を遅らせれば、遅らせるほど、それが気になって他の仕事が手につかないし、結局たいした発展もない。

 実際、早い期日を選び、自分でコミットしてしまうと精神的に気持ちいいのだ。すっきりする。うじうじ考えて悩んでいたはずなのに、スパっとクリアになる。

 

キビキビ

 会社帰りに、とあるサイゼリヤで良く外食するのだけど。そのお店はいつ行っても店員がキビキビ動いている。他の店はどうだか判らないけど、全ての店員さんが、自分のできる範囲で仕事を進めている。そんな感じをうける。

 例えば、配膳している人がいて、レジが空いていたら、気づいた人が会計を担当する。というように、個々人の仕事が、担当不在の仕事を穴埋めすることで、全体として切れ目なくお店が回っていく。つまり、みんながいつも、動き続けていて、足りない部分を補っている。

 たまたま今日、いつもと座る席が変わったせいか、それに気づいて、目の当たりにしたのだけれど。それがとても調和がとれていると感じた。ここまで相互補完している組織に、私は今まで気が付かなくて、今日それに気が付いたとき、図らずも感動してしまった。個々の店員さんの、自分のできる範囲で考え、自分でできる仕事をまっとうしていく。そんな姿勢と、それに基づいて、スムーズに流れていく仕事。見ていてとても気持ちがいい。

 

恐怖と不安

 仕事中の話なんだけどね。私はお客様と合意形成する上で、一段抽象化した提案や問い合わせをする傾向がある。そうなると、折角詰めていた話がリセットされてしまうため、合意形成のやり直し、ひどいときはお客様が回答する気を無くして商談が立ち消えになってしまう可能性がある。

 なぜそんなことになってしまうか考えたんだけど。合意する上で裏付けがとれていない、いろいろな心配事があって、それが自分の中で解決できていないと自信が持てない。だから結果として、それらのすべてを包括する抽象的な提案をしてしまうのだと思う。

 例えば、直前までイタリアンを食べに行こうね。と話が進んでいるのに、いろいろ余計なな心配事(果たして本当に相手はイタリアンで満足しているのか?という無駄な疑問、もしくは、イタリアンが良いという相手の雰囲気を察することができないこと)があって、結果として、お昼なににする?と抽象的な問いになってしまう。

 その問題的な思考に至る経緯を考えたのだけど。一つは不安が大きいのだとおもう。自分が認識できないお客様の期待を意識しすぎて、どんどん確かめることが膨らんでしまう。そして万能な答えを出そうとする。だから必然的に提案が抽象的になる。そんなところだろうか。

 一方、「恐怖」と「不安」の意味をネットで調べてみた。どちらも恐れの感情を伴うことは同じ。ただし、恐怖は恐怖の対象がはっきりしているが、不安は不安の対象がない、ということらしい。

 私の防御的な思考はこの「不安」によるものじゃなかろうか。なにに不安を覚えているかわらかなけいど、怖くて足がすくむ。そういった思考が、自然と防御的な姿勢をまねくのじゃなかろうか。

 もし、今度不安を感じたら、その不安の対象を探してみようと思う。対象があれば、それをお客様に確認すれば良いと思う。もしかしたら、お客様や上司に確認すると無能と思われるが嫌で確認できない思考が働いているのかもしれない。でも大切なことと思う。もし不安の対象が無ければそれは考えすぎ考えすぎなのだろう。そうやって自分の思考のクセ変えていければと思う。

判断と決断

 今日、上司にメールで回答を書いてた文章のことだけど。自分は「判断」とう言葉を使うことが多いなと。「決断」はあまり使ったことがない。

 なぜかって考えたのだけど、「決断」は行動につながり責任を伴うからだと思う。一方、「判断」は行動する手前の段階だから責任を伴わない。自分の考察を人に丸投げするだけで、自分を安全な場所に置ける使い勝手が良い言葉なのだと思う。居心地がいいのだ。

 仮想的な達成感を味わうには「判断」という言葉は非常に、甘美な響きだ。「判断」しただけで、素晴らしい結果を獲得できた気になる。でも、現実世界では、「判断」後の行動は非常に泥臭い努力が必要になってくる。つまり、それを乗り越えないとリアルな成果は得られない。

 だから、なるべく今後のコミュニケーションでは「決断」という言葉を使っていこうと思う。

しんどい

 たまたま、人の書いた文章を添削する機会があったのだけど。しんどい。私はできればその人が書いたものをそのまま生かしたいと思う人なので、私の作法で書き直したりしない。

 そこで、書いてもらった文章を私が解釈するのだけど。まずそれを解釈するには、できれば、その人がどんな考え方や思想を理解しなければいけない。それは、その人の普段の言動や感情の表現から伺えるのかもしれない。そして、その人の思想をベースに文章を解釈するのだけど、普段慣れている自分の思想とまったく異なる思想を仮想的に構築して解釈するわけだから、負担が大きい。だからこのプロセスがしんどい。

 

ボートのおじさん

 小学生のころなんだけど。私の住んでいた町には城跡があってその周りは堀でぐるっとかこまれていてみんな「お堀」と呼んでいた。お堀に囲まれた城壁の探検は小学生の私にとって冒険の場でぐるっと城壁の上を一周するだけで非常な満足感を覚えたものである。またお堀には鯉などが生息しており絶好の釣りスポットだった。

 一方、私たち小学生からボートのおじさんと呼ばれる人がいた。ボートのおじさんはおそらく市の職員か清掃会社の人だったのだろう。ときたまお堀にボートを浮かべてなにか仕事をしていたようだった。お堀には遊覧ボートなどなくお堀の中を自由に行き来できるボートのおじさんは小学生の私から見てとても羨ましかったのを覚えている。

 そんなある日のこと。小学生だった私は友達と一緒にお堀に釣りに出掛けた。私は先端に釣糸を結んだ竹竿で友達はリールがついた投げ釣り竿をもっていた。しかしお堀は禁止の看板があったのか暗黙のルールだったのか覚えてないけど投げ釣りが禁止だった。そして唯一の例外はボートのおじさんに許可をもらうことだった。ところが私たちはボートのおじさんを探すのが面倒と思い釣りをはじめてしまった。

 ちょっと話がそれるけどボートのおじさんには小学生の子分がいておじさんの代わりに勝手に投げ釣りする子がいないか見回りしていた。私はそんなことを知らなくてその子分がやってきたときに友達の手前かっこをつけたかったのかその子分どもにボートのおじさんの許可をもらっていると嘘をついた。しばらくするとさっきの子分たちがやってきて私にちょっと来いといってきた。子分どもは私より低学年でなにするものぞと釣り場から離れて上にあがっていたところ、なんとそこにはボートのおじさんが立っていた。

 冷や汗がでた。私は何をいったか覚えてないけれどいきなり頬をはたかれた。ボートのおじさんは子供に対してどうしたら大人しくさせることができるか熟知していたのだ。私は一瞬のことで頬はジンジンするけど以外と痛みは感じなかった。ただそれよりも恐怖がまさっていたのか涙がポロポロとこぼれた。圧倒的な大人の力に抗えない無力さなのか、嘘をついたことの後悔からかいろいろな要素が混じっていた気がする。なぜかあとからあとから涙がポロポロこぼれた。

 ボートのおじさんは泣いた私を見て気がすんだのか説教を終えると私の釣り道具をもってくるように言った。私が竹の釣りざおを持って再度あがってきたときボートのおじさんはなぜかしまったという顔した。そして私の釣り竿は没収されなかった。後から知ったのだけどボートのおじさんはたまに子分達に立派な釣り竿を景品にしたお楽しみ会を年に何回か開催していたらしい。

 お堀で許可なく投げ釣りをしてはいけないとう前提をかかげて子供を脅かし釣り道具を巻き上げて子分に横流しすることで自分の立場を作りあげけていく。今思うとそんな構図が成り立っていたのかもしれない。強いものが弱いものから搾取したものを子分にバラマキ忠誠を誓わせる。こういった構図は世の中どこにでもあるのだろう。驚くことじゃない。

 もちろんボートのおじさんを問いただして確認したわけじゃないので事実は判らない。もしかしたらボートのおじさんはとんでもなく嘘つきが嫌いな人なのかもしれない。でも私は今でもふとした拍子に思い出す。それは子供ながらに感じた 理不尽な大人(社会)に対する怒りの記憶が吹き出してくるの表れなのかもしれない。

 でもボートのおじさんにはボートのおじさんの善があるし、あの時の私にも私の善があった。私は私の善に基づいて嘘をついたわけだけどそれは決して誉められたものではない。私の不幸はただお互いの善がぶつかり合った結果である。

 話がそれてしまったけどこうやって過去の出来事について論理的に自分の認識が正しいか論証していくことが大切なんだとおもう。その積み重ねが私に自己確信を与える。

 またこうやって少しづつ自分の怒りを紐解いていくのは大切と思う。その結果相手が悪という結論になるかもしれないし、自分の認識を見直すことになるかもしれない。でもそこに結論がでれば少なくとも理不尽さを抱えたまま今後生き続けることがなくなる気がするし自己確信が増えていく。自分がもっと判るようになって好きになっていく。それでいいのじゃなかろうか。