ポコあポコ

タイトルは学生時代に読んでいた小道迷子さんの競馬の4コマまんがから頂きました。登場するゆるくて憎めないキャラクターが良いです。

恐怖と不安

 仕事中の話なんだけどね。私はお客様と合意形成する上で、一段抽象化した提案や問い合わせをする傾向がある。そうなると、折角詰めていた話がリセットされてしまうため、合意形成のやり直し、ひどいときはお客様が回答する気を無くして商談が立ち消えになってしまう可能性がある。

 なぜそんなことになってしまうか考えたんだけど。合意する上で裏付けがとれていない、いろいろな心配事があって、それが自分の中で解決できていないと自信が持てない。だから結果として、それらのすべてを包括する抽象的な提案をしてしまうのだと思う。

 例えば、直前までイタリアンを食べに行こうね。と話が進んでいるのに、いろいろ余計なな心配事(果たして本当に相手はイタリアンで満足しているのか?という無駄な疑問、もしくは、イタリアンが良いという相手の雰囲気を察することができないこと)があって、結果として、お昼なににする?と抽象的な問いになってしまう。

 その問題的な思考に至る経緯を考えたのだけど。一つは不安が大きいのだとおもう。自分が認識できないお客様の期待を意識しすぎて、どんどん確かめることが膨らんでしまう。そして万能な答えを出そうとする。だから必然的に提案が抽象的になる。そんなところだろうか。

 一方、「恐怖」と「不安」の意味をネットで調べてみた。どちらも恐れの感情を伴うことは同じ。ただし、恐怖は恐怖の対象がはっきりしているが、不安は不安の対象がない、ということらしい。

 私の防御的な思考はこの「不安」によるものじゃなかろうか。なにに不安を覚えているかわらかなけいど、怖くて足がすくむ。そういった思考が、自然と防御的な姿勢をまねくのじゃなかろうか。

 もし、今度不安を感じたら、その不安の対象を探してみようと思う。対象があれば、それをお客様に確認すれば良いと思う。もしかしたら、お客様や上司に確認すると無能と思われるが嫌で確認できない思考が働いているのかもしれない。でも大切なことと思う。もし不安の対象が無ければそれは考えすぎ考えすぎなのだろう。そうやって自分の思考のクセ変えていければと思う。

判断と決断

 今日、上司にメールで回答を書いてた文章のことだけど。自分は「判断」とう言葉を使うことが多いなと。「決断」はあまり使ったことがない。

 なぜかって考えたのだけど、「決断」は行動につながり責任を伴うからだと思う。一方、「判断」は行動する手前の段階だから責任を伴わない。自分の考察を人に丸投げするだけで、自分を安全な場所に置ける使い勝手が良い言葉なのだと思う。居心地がいいのだ。

 仮想的な達成感を味わうには「判断」という言葉は非常に、甘美な響きだ。「判断」しただけで、素晴らしい結果を獲得できた気になる。でも、現実世界では、「判断」後の行動は非常に泥臭い努力が必要になってくる。つまり、それを乗り越えないとリアルな成果は得られない。

 だから、なるべく今後のコミュニケーションでは「決断」という言葉を使っていこうと思う。

しんどい

 たまたま、人の書いた文章を添削する機会があったのだけど。しんどい。私はできればその人が書いたものをそのまま生かしたいと思う人なので、私の作法で書き直したりしない。

 そこで、書いてもらった文章を私が解釈するのだけど。まずそれを解釈するには、できれば、その人がどんな考え方や思想を理解しなければいけない。それは、その人の普段の言動や感情の表現から伺えるのかもしれない。そして、その人の思想をベースに文章を解釈するのだけど、普段慣れている自分の思想とまったく異なる思想を仮想的に構築して解釈するわけだから、負担が大きい。だからこのプロセスがしんどい。

 

ボートのおじさん

 小学生のころなんだけど。私の住んでいた町には城跡があってその周りは堀でぐるっとかこまれていてみんな「お堀」と呼んでいた。お堀に囲まれた城壁の探検は小学生の私にとって冒険の場でぐるっと城壁の上を一周するだけで非常な満足感を覚えたものである。またお堀には鯉などが生息しており絶好の釣りスポットだった。

 一方、私たち小学生からボートのおじさんと呼ばれる人がいた。ボートのおじさんはおそらく市の職員か清掃会社の人だったのだろう。ときたまお堀にボートを浮かべてなにか仕事をしていたようだった。お堀には遊覧ボートなどなくお堀の中を自由に行き来できるボートのおじさんは小学生の私から見てとても羨ましかったのを覚えている。

 そんなある日のこと。小学生だった私は友達と一緒にお堀に釣りに出掛けた。私は先端に釣糸を結んだ竹竿で友達はリールがついた投げ釣り竿をもっていた。しかしお堀は禁止の看板があったのか暗黙のルールだったのか覚えてないけど投げ釣りが禁止だった。そして唯一の例外はボートのおじさんに許可をもらうことだった。ところが私たちはボートのおじさんを探すのが面倒と思い釣りをはじめてしまった。

 ちょっと話がそれるけどボートのおじさんには小学生の子分がいておじさんの代わりに勝手に投げ釣りする子がいないか見回りしていた。私はそんなことを知らなくてその子分がやってきたときに友達の手前かっこをつけたかったのかその子分どもにボートのおじさんの許可をもらっていると嘘をついた。しばらくするとさっきの子分たちがやってきて私にちょっと来いといってきた。子分どもは私より低学年でなにするものぞと釣り場から離れて上にあがっていたところ、なんとそこにはボートのおじさんが立っていた。

 冷や汗がでた。私は何をいったか覚えてないけれどいきなり頬をはたかれた。ボートのおじさんは子供に対してどうしたら大人しくさせることができるか熟知していたのだ。私は一瞬のことで頬はジンジンするけど以外と痛みは感じなかった。ただそれよりも恐怖がまさっていたのか涙がポロポロとこぼれた。圧倒的な大人の力に抗えない無力さなのか、嘘をついたことの後悔からかいろいろな要素が混じっていた気がする。なぜかあとからあとから涙がポロポロこぼれた。

 ボートのおじさんは泣いた私を見て気がすんだのか説教を終えると私の釣り道具をもってくるように言った。私が竹の釣りざおを持って再度あがってきたときボートのおじさんはなぜかしまったという顔した。そして私の釣り竿は没収されなかった。後から知ったのだけどボートのおじさんはたまに子分達に立派な釣り竿を景品にしたお楽しみ会を年に何回か開催していたらしい。

 お堀で許可なく投げ釣りをしてはいけないとう前提をかかげて子供を脅かし釣り道具を巻き上げて子分に横流しすることで自分の立場を作りあげけていく。今思うとそんな構図が成り立っていたのかもしれない。強いものが弱いものから搾取したものを子分にバラマキ忠誠を誓わせる。こういった構図は世の中どこにでもあるのだろう。驚くことじゃない。

 もちろんボートのおじさんを問いただして確認したわけじゃないので事実は判らない。もしかしたらボートのおじさんはとんでもなく嘘つきが嫌いな人なのかもしれない。でも私は今でもふとした拍子に思い出す。それは子供ながらに感じた 理不尽な大人(社会)に対する怒りの記憶が吹き出してくるの表れなのかもしれない。

 でもボートのおじさんにはボートのおじさんの善があるし、あの時の私にも私の善があった。私は私の善に基づいて嘘をついたわけだけどそれは決して誉められたものではない。私の不幸はただお互いの善がぶつかり合った結果である。

 話がそれてしまったけどこうやって過去の出来事について論理的に自分の認識が正しいか論証していくことが大切なんだとおもう。その積み重ねが私に自己確信を与える。

 またこうやって少しづつ自分の怒りを紐解いていくのは大切と思う。その結果相手が悪という結論になるかもしれないし、自分の認識を見直すことになるかもしれない。でもそこに結論がでれば少なくとも理不尽さを抱えたまま今後生き続けることがなくなる気がするし自己確信が増えていく。自分がもっと判るようになって好きになっていく。それでいいのじゃなかろうか。

月曜日はパンツのゴムを引き締めて

 休み明けの月曜日いつもながら仕事の調子が上がらない。いきなりアクセルを限界まで踏み込めない。というか踏み込んでもなかなか最高速度に達しない。先週のノリノリの状態にならない。そうやって無理してあがいているうちに月曜日が無為に過ぎていく。
 少し前のネットの記事でこんなことが書いてあった。
 ストレスから心筋梗塞や自殺などの事故が特に月曜日の午前に起きやすいことがさまざまな研究で明らかになっているそう。このような直接的な障害は私はピンとこないけど毎週月曜日に感じるもどかしさは同じ根っこであるように思う。このような月曜日ストレス上昇説は大学の教授が提唱していたりネット上喧伝されているため私だけの現象でなかったのだと思ってしまう。
 おそらく私の場合、休日はリラックスして緊張がほどけている。一方、平日は火曜日あたりから調子が上がって水曜、木曜がフル回転、金曜日はちょっと疲れてペースダウン。一方調子が上がった状態はほどよい緊張やストレスが必要になる。だから休日でリラックスして緊張がほどけてユルユルになった月曜日はいつもの力が出なくてそのギャップに苦しむ。そんな感じじゃなかろうか。以前はサザエさんが始まるとブルーになったけど、それはそもそも月曜日に調子が取り戻せないないことに対するギャップが起因しているのかもしれない。
 なんでこんなことを整理したかというと先日の月曜の朝ラッシュに揉まれながらこの状況を例える適切な表現を思い付いたから。
 それは月曜日の私はゴムの延びきったパンツを履いて出掛けているのようなものだということ。ゴムが緩んだぱんつを履いて歩いたりいきなり走り出すからパンツがずりおちてくる。強引に走り続ければパンツが落ちてきてけっきょく余計な仕事が増えて負担が増す。全力ダッシュ中にパンツが落ちないように必死に腿上げするけど結局対処療法で本質的な解決に至らない。
 だからいったんパンツのゴムを引き締めてから調子をあげていく。月曜日はパンツのゴムのメンテナンス日。 緩みきったゴムで調子のいいときのように仕事を回そうとしても回るわけがない。
 仕事はそんなに楽しいことばかりじゃないけど、どうせやるなら後ろ向きじゃなくて仕事のなかで充実感を感じたいじゃないですか。だからうまく仕事と付き合っていく方法を考えることが大切と思う。
 

好きなことを仕事にできればいいのか

 先日、米澤穂信のミステリを読んでいたら以下の下りが目に留まった。主人公はフリーのライターで知り合いの編集者から都市伝説についてネタが決まっている記事四本と自由なネタで書いていい記事一本の執筆を依頼される。

  これこれこういう都市伝説について書いてくれと言われれば、その仕上がりと速さはプロのものだと自負している。しかし、好きに四ページ書いてくれと言われると、手がぴたりと止まってしまう。いつものことだった。
満願 米澤穂信

 主人公は小器用でお題が決まった記事はすぐに書き終えるが指定のない記事は手が出ずに先輩のライターに泣きつく。これが今の私の仕事の壁と驚くほど酷似している。私もやることが決まっていれば器用にこなせると思うのだけど好きにやっていいよと言われると手が止まる。

 好きなことを仕事にできればいい。好きなことを仕事にすれば成功できる。以前はそう考えていた。確かに好きなことに囲まれていれば幸せだしモチベーションも維持できるだろう。でも好きなことを仕事にすることと好きな仕事で成功するの間には大きな隔たりがある。それはクリエイティブになれるか?ということだと思う。そしてその作業はとても泥臭い。
 一般的な情報やささいな事実の発見から真実をこじ開ける。自分を当事者の立場に置き事実や経験から仮説を積み上げて物語をつくっていく。もしかしたらその物語は嘘っぱちかもしれないし、ぼろぼろ崩れるし、方向性を間違えて最初からやり直したりするかもしれない。それでも仮説を何回もいくつも積み上げていく。それでも積み上げた仮説に説得力があり真実味が増すとそこにリアリティが生まれる。そうやって自分の物語を洗練し一般化するとみんなに認められるようになってくる。とても辛くて苦しい作業だけどそれがクリエイティブということじゃなかろうか。
 

REFS 熱海

 熱海にあるビストロ「REFS 熱海」に行ってきた。ここは地元のお野菜が売りらしい。

tabelog.com

お店はこじんまりしているけどお食事するところが2F、一方1F&B1Fはオーガニックな野菜や地元ブランドの商品を売る場所になっている。狭い店舗でも開放的な空間を演出していてオーガニックな雰囲気の中でお食事している気分になれる。予約していた席の場所が一番その雰囲気を感じ取れるところだったので店の人が気を効かせてくれていたのかも。ありがたや。

 

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熱海港活き〆お魚の有機ホワイトバルサミコ風味(900円)。野菜とお魚の盛り付けがキレイ。もちろん美味しかったです。野菜は甘みがあって普段スーパーで買っているものとの違いが私でも分かる。端っこに載っているのは高級食材のカラスミかな?それにしても美味しいけど食材の名前を知らないというのが最近よくある。

 

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REFS特性こだわり野菜の蒸し煮(1000円)。プロの間で有名なカルピスバターを使っているそう。それにしてもここのお店は初めて食べるお野菜が多かった。ロマネスコというのも初めて。どれも美味しかったです。

 

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伊豆鹿のロースト 気まぐれソース(1900円)。ソースは浜納豆を使っている。浜納豆は味が濃くて同じ大豆製品の味噌の風味を彷彿とさせる。鹿の肉は牛肉のような味で赤身のため比較的淡泊。浜納豆の濃いソースが合います。美味しかったです。

 

浜納豆(参考)

www.ymy.co.jp

 

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おとうふのティラミス。ビスケット?の歯ごたえが良かったです。

色んなお野菜が食べれて満足。ごちそうさまでした。